第三十四話 腐乱死体とランドセル

 亜紀はその日、複雑な思いを抱えながら下校した。まだ痛む肩の傷が、厭でもモールとの戦闘を彼女に思い出させた。

モンプエラが人を襲うのならば、自分は彼女たちと戦わずにはいられない、警察も到底あれらには敵わないのだから、ということを早穂は言っていたが、果してどこまで自分たちにできるものだろうか。亜紀としてはできることならば、あのような恐ろしい戦いなどは二度としたくはなかった。

 そんなことを考えながら家へと辿り着くと、門前に立っている二人の学生の姿が見えた。その内の一方は弟の祐樹であり、もう一人はウィステリア学院高校の制服を着た、長い茶髪の少女だった。亜紀は頭を捻り、御廚天音という、その祐樹の先輩の名前をようやく思い出した。

 そのとき祐樹が、自転車を曳いて歩いてきた亜紀に気付き、丁度良いところだったのにという、不興げな表情を微かに浮べた。目の前に他人がいなければ即座に懲らしめてやるところだったが、天音の手前そうもいかず、つられてこちらを振り返った天音に、強いて微笑して会釈した。天音も慌てて、亜紀に頭を下げた。

「初めまして、御廚天音です」亜紀が口を開くよりも早く、天音は口早に挨拶をした。「中学のとき、陸上部で祐樹くんと一緒でした。今日は偶然、帰り道に出会ったのですが……」

 亜紀は微かに笑った。天音は恐らく前回は気付かなかったのだろうが、亜紀は一ヶ月ほど前にも、放課後の門前で二人が話しているところを目撃している。果して本当に偶然であったのだろうかと、疑いたくなる気持が湧いた。但し口には出さず、「初めまして、祐樹の姉の亜紀です」とだけ亜紀は言った。

 そのとき亜紀は気付いたのだが、天音というこの少女も、間近で見てみると相当の美少女であった。一直線に切り揃えた前髪の下にある、大きな黒い眼が麗しく、鼻筋は高く秀でている。背中に長く垂れた髪が身体の動きに合せて微かに揺れるのも、そのすらりとした背の高さと相俟って、優雅な印象を抱かせた。思わず亜紀は彼女の姿に見入り、僅かな間の沈黙が流れた。

「お姉さんのお話は度々……」

 天音は笑顔を浮べて、祐樹をちらと一瞥した。祐樹はつまらなさそうな顔をしていた。「よく喧嘩をされるとか伺いましたが、賑やかそうで羨ましいです。私は兄とはずっと年が離れていて、今は一人っ子みたいなものですので」

「羨ましいですか」亜紀は苦笑した。「一人のほうが清々するでしょうね」

「本当、俺もそう思うよ」

 祐樹が負けずといった調子で憎まれ口を叩き、天音が笑う横で、亜紀は拳を振り上げてみせたが、そのとき突然脳裡に、不穏な予感がひらめいた。それは以前にも感じた、あのモンプエラが現れたときに感じる感覚そのままだった。

「どうしました?」

 突然動きを止めて拳を下ろした亜紀に、不思議そうに天音は尋ねた。亜紀は黙り込み、徐々に鮮明になってゆくその感覚に、意識を集中させようとした。やがて亜紀は、徐ろに顔を上げ、静かに天音に告げた。

「ごめんなさい、私、忘れ物をしてきたみたいで……」

 そう言うが早いが、亜紀は自転車に跨り、ペダルを大きく踏み込んで走り出した。背後で何か声が聞えた気がしたが、振り向く余裕はなかった。


* * * * * *


 人通りの少ない高架下の道路に、一人の少女が立ち、冷たいコンクリートの壁に凭れていた。赤いランドセルを背負った、小学校低学年ほどの年齢に見える、幼い少女である。近くにはボランティアの、横断歩道前で旗振りをしている老人もいたが、高架下は小中学生たちの通学路でもあるので、それほど気には留めなかった。

 暗い高架下で、少女はあどけない、しかしどこか不気味な笑みを浮べながら、時折通り過ぎる通行人の姿を見つめていた。通り過ぎるのは自転車に乗った主婦やサラリーマン風の男ばかりで、何かを待っているらしい少女は、そちらには特に関心を見せなかった。

 やがて男女の入り混じった、数人の中学生の集団が歩いてくるのが、少女の眼に止まった。少女は人形のような顔を笑みに歪ませ、道を塞ぐようにして、彼らの前に立ちはだかった。お喋りに夢中だった中学生たちも、歩道の真中に立った小学生らしき姿を認めて、訝しげにそちらを見遣った。

 瞬間、少女の身体全体が、薄闇の中で光り輝いた。

 次の瞬間、そこに立っていたのは、一週間ほど前に公園で不良少年たちを殺害した、あのおぞましい怪物であった。少女の姿はそのままに、頭から伸びた触角、黒いドレス、昆虫の腹を想起させる銅色のコルセット……、しかし最も醜悪であり、最もあの殺害された不良少年たちを恐怖させたものは、先ほどまでその背にあった真赤なランドセルに代って、今その異形と化した少女が背負っている、山のような人間の死体の累積であった。凄まじい腐臭が、忽ちにして辺りに立ち込め始めた。

 大量の死体の多くは既に腐乱しており、溶けた茶色の肉が流れ、骨が剝き出しになっていた。最も古いと思われる一番下の幾つかの死体は、既に襤褸切れとなった服を絡み付かせた、無惨な白骨死体となっている。それとは対照的に堆積の一番上には、まだ状態のいい、しかし変色し糜爛し始めている不良少年たちの死体が載っている。

その死体の山の中には、ニュースで行方不明者として流れていた、スーツ姿の会社員もおり、和服を着た老人もおり、洒落た服装の若い女もおり、そして、小学一年の、あの男児もいた。その黒いランドセルは小さな腐乱死体に背負われたまま、今も汚物に塗れながら輝いていた……。

 それほど大量の死体を背負い込みながらも、少女は全く苦痛の色を見せなかった。まとわりつく蠅、零れ落ちる蛆虫にも頓着せず、胸を張って、腕を前方へと突き出した。そして輝きを放ちながら虚空に現れ出た黒い剣を摑むと、一斉に悲鳴を上げて逃げ出そうとする中学生たちのもとへと、小さな笑いを洩らしつつ、ゆっくりと歩み寄っていった。

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