第三十三話 アクア、碧き弓

 水野碧衣は、玄関の格子戸を引き開けた。

 広々とした三和土のある玄関の奥で、柱時計が時を刻んでいた。宏壮な家の中は静まり返っていたが、屋内へ入った彼女が戸を閉めると、廊下を駆けてくる足音が聞え、女中の一人が現れた。

「お帰りなさいませ、お嬢さま」

「ただいま」碧衣は靴を脱いで廊下へと上った。「皆はいないの。お兄さん

達は?」

「お二人ともまだ、大学からは戻ってきておられません」

「そう」磨き立てられた廊下を進んで、碧衣は奥の自室へと向った。廊下は庭園に面しており、澄んだ水を湛えた池が、樹々や配置された岩の姿を映しているのを眺めることができた。秋には池辺に紅葉が色づくのであったが、この季節は若葉が鮮やかに、古色蒼然とした岩々との対照を成しているのみである。陽の当る水の縁の岩で、小さな亀が甲羅干しをしていた。

 自室へ入り、碧衣は障子戸を閉ざした。鞄を机の脇に掛けて、私服へと着替えてから、机に向って置かれた椅子に腰を下し、これを半回転させて六畳半の和室を見渡した。

 部屋の奥の柱には、一枚の御札が貼られている。物心の付いたときからあるものだ。同じ御札はこの屋敷のあらゆるところに貼られており、聞くところによれば父が崇天教に入信したばかりの頃、父が十数枚買い受けてきて貼ったものらしい。それだけの熱心さがあったからこそ、父も崇天教幹部としての、今の地位を築くことができたのだろう、と碧衣は思うのだった。

 ふと今日、学校で佐々井桃香と交した会話を思い出して、鞄からユーストステッキを取り出した。ユーストピンクの持つそれの桃色とは対照的な、水色をしたステッキである。障子紙を通して射し込む日光が、象嵌されたサファイアのような色の宝石に、深みのある輝きを与えていた。

 本人にも明確に言った通り、桃香はユーストガールとしてまだまだ不適格であると彼女は考えていた。まだあの少女には覚悟が足りない。先程の会話からも、彼女がまだ、自らの使命よりも優先して、自分の生命を尊重しようとしている甘えが感じられた。ユーストガールが、そんなことでは勤まる筈がない。これは幸運にも天の神から、自分たちが賜ることができた使命なのである。

 だから当然、大いに喜び勇み、何事にも優先して遂行すべき仕事であるのに、人の命のために渋々戦うつもりである、というような桃香の口ぶりが、碧衣には歯痒く感じられて仕方がなかった。自分の使命を自覚し、全力を尽し、命を懸けて悪魔と戦う覚悟を持ちなさい、そう言ってやりたかった。

 しばらくの間、ステッキを眺めていた碧衣であったが、やがてこんなことをいつまでも考えていても仕方がないと、ステッキを再び鞄へと仕舞い、勉強道具を取り出して机へと向った。生徒会長である碧衣は、推薦枠を利用して、東京の清栄女子大学への進学を志望している。入学時から優秀な成績を維持し続けてもおり、推薦枠が貰えることはほぼ間違いないと思われたが、気を緩めるつもりは彼女にはなかった。

 夕食にはまだかなり早い時刻である。一家は大体父が帰ってきてから、両親と碧衣、大学生である二人の兄と共に摂ることとなっている。父方の祖父母も同じ屋敷に住まっているのだが、二人が住んでいるのは奥まった離れであり、食事なども全く別であるので、事実上の別居という認識である。

 水野家の食事は、「天日大神様、今日も幸福に食事を頂けることを、ここに感謝致します」と父が唱え、残る全員が「感謝致します」と続いて唱和することで始められる。この家では一事が万事この調子で、厳かな「崇天教の戒律」によって、生活の全てが管理されているのであった。

 しばらく碧衣は勉強を続けていたが、或る瞬間、何かの異様な気配を感じ取って顔を上げた。それは言葉には形容し難い、頭に浮ぶ奇妙な感覚であったのだが、鞄を開けて中を覗き込んだ彼女は、自身の予想が的中したことを悟った。ユーストステッキの宝石が、強く青い光を発していたのである。

 鞄を手に取り、無言で碧衣は立ち上った。長い廊下を再び玄関まで戻り、靴を履いているところで、急ぎ足で台所からやってきた女中が「お嬢様、どちらへ?」と尋ねた。

「少し出掛けてくるわ」

 それだけを答えて、碧衣は外へ出た。籠に鞄を放り込んで自転車に跨り、強くペダルを踏み出して発進させた。ユーストガールとしての感覚が、目的地、即ち「悪魔」の出現した場所を彼女に教えている。これに従って碧衣は街を疾駆していった。

 目的地の公園に辿り着くと、碧衣は自転車を止めた。樹々に囲まれた薄暗い公園は、人の気配もなく静まり返っている。鞄からステッキを引き出すと、碧衣は慎重な足取りで園内へ足を踏み入れていった。

 遊具や砂場のある辺りまでやってくると、視界の端にふと、異様なものが映った。それはベンチに横たわった一人の男であったが、見ればその顔面や胴体は、大きな刃物を幾度も振り下ろされたかのように無惨に切り刻まれており、鮮血を地面へと滴らせながら、男は既に息絶えていた。

 碧衣がそちらへ歩み寄っていこうとしたとき、突如として背後から、何者かが飛び掛かってきた。先程まで広々とした園内には誰の姿もなかった筈であり、その襲撃は碧衣にとっても予想外のものであった。しかし彼女は瞬時に横へ飛び退いて攻撃を躱すと、距離を取って敵の姿を確認した。

 奇襲が失敗し、地面へ着地して苛立たしげに振り向いたのは、全身をカーキ色の服に包み、脚絆、鋭い鍔を持つ鉄兜を身に着けた、モールモンプエラであった。先程まで碧衣が立っていた場所の、すぐ後ろの地面には、モールが飛び出してきたのであろう、大きな穴が開いていた。

 モールは手に握っているスコップを構え直し、唸りながら歩み寄ってきた。その刃は、恐らくベンチで死んでいた男のものであろう、鮮やかな血に濡れている。しかし碧衣は冷静にステッキを前方に突き出し、変身の言葉を唱えた。

「理智の天使、ユーストアクア。力よ来れ」

 瞬間、その前身は鮮やかな水色に光り輝いた。モールは眩しそうに眼を瞬いたが、忽ちにして光は消え、そこには水色を基調としたドレスに身を包み、長い髪もまた、鮮やかな水色に変化した。碧衣はステッキを一メートルほどの長さに瞬時に伸ばし、敵に向って構えた。

「また妙な奴が現れやがったか」

 モールは忌々しげにそう言ったが、碧衣にとっては「悪魔」の言葉など、考える意味もない戯言に過ぎなかった。敵が飛び掛かってきたと同時に、ステッキでこれを受け止め、力を籠めて押し返した。モールは唸りながらスコップを引き、素早く突き出そうとしたが、これも碧衣の身体に届くには至らなかった。

 碧衣は更に、躱した体勢をすぐさま攻撃に転じて、ステッキでしたたかに敵の胴を打ち据えた。モールが呻き声を上げ、身体を僅かに折り曲げるところに、更にステッキを振り下ろし、攻撃を立て続けに喰らったモールは、かなり堪えた様子で飛び退いた。

「貴様……」

 碧衣は無言で後方へ飛び退き、滑り台の上へと着地した。そしてステッキを縮めて腰帯に插し、空中に腕を差し伸べた。青く光り輝きながら、大きな弓がどこに出現した。それこそがユーストアクアの主力武器、ユーストボウであった。その弓幹にもステッキと同じく、青い宝石が埋め込まれていた。

 同時に召喚された数本の矢の内一本をつがえて、碧衣はモールへと弓を向けた。モールはスコップを構え、唸りながら全力で碧衣のもとへと駆けてきた。これほどの速さで動く目標に矢を命中されるのは困難な筈であったが、碧衣の技は見事だった。矢は過たずモールの胸に的中し、カーキ色の服を貫いて、深々と突き刺さったのである。

 微かに信じられぬといった声を上げて、モールは立ち止り、よろめいた。そこへ素早く二本目の矢をつがえた碧衣が、今度は喉元を射た。モールは血反吐を吐き出して膝から地面に崩れ落ち、その身体は忽ち爆発を起して、粉々に砕け散った。

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