第二十九話 遠い昔の脱走者
「最近、市内で行方不明事件が多発しているらしいわね」
日曜の朝、家族で食事を摂っているときに、テレビを見て母が言った。亜紀が味噌汁を啜りながら顔を上げて画面を見ると、「忽然と消えた六人の住民……一体どこへ?」というテロップが読まれた。ニュースキャスターが原稿を読み上げた。
「この二ヶ月で、藤野市の住民計六人が行方不明になるという、前例のない事態が発生しています。県警は懸命に捜査に当っていますが、今のところ手掛かりはなく……」
続いて映し出された行方不明者六名の顔写真は、年齢も性別もばらばらだった。壮年の会社員もおり、老人もおり、若い女性もおり、そして小学一年の男児もいた。母は溜息をついた。
「恐ろしいわねえ、無事に見つかってくれればいいのだけれど……」
「これって皆、同じ事件として考えていいものなのかな」と亜紀は首を傾げた。「余りにも年齢が離れすぎているし、もし一人の仕業だとしたら、これほどの人数を拉致したり誘拐したりするなんて、流石に難しいはずだし……集団による犯行かもしれないけれど」
モンプエラの仕業ということも有り得るだろうか、と亜紀は思った。しかし以前のマンティスにしろフロッグにしろ、現場には必ず殺害後の死体が残っていた。新しいモンプエラが、死体を残さない方法で殺人を行っているという可能性もある。しかし、どうやって死体を残さず人を殺せるというのだろう。どこか遠い山や海に棄ててしまうとか、それとも跡形もなく溶かしてしまうとか……。
そこまで考えて亜紀は食慾が失せてゆくのを感じ、慌てて考えを打ち切って、再び箸を動かし始めた。休日であったが、今日は用事があった。以前に早穂と話した通り、自分の正体を探るために、彼女は行動を起すことにしたのである。まず最初に思いついたのが、自分が幼時を過ごした養護施設を訪ねることであった。
捨て子のことを、行政機関などでは棄児という。棄児は発見され次第病院に保護され、すぐさま警察への通報が行われる。駆け付けた警察は、事件性がないかなどを調査し、後日、棄児発見申出書を作成し、当該地の市長に申し出る。棄児は、児童相談所によって直ちに保護されることとなる。
子供の身元が分からない場合、市は棄児発見調書を作成する。そして市長が子供の姓名を決め、本籍地を定めることになる。亜紀という名前も養父母ではなく、当時の藤野市長による命名である。姓は発見者や発見地などから取られることが多く、亜紀にも北野家に引き取られるまでは別の姓が付けられていた。
その後は子供の状態に応じて、病院や乳児院への委託一時保護、二歳以上程度ならば児童養護施設への入所などといった措置が取られる。児童相談所は子供の社会調査を実施し、親が判明した場合には、その親の居住地の児童相談所に移管する。しかし親が判明しない場合には、藤野市児童相談所において乳児院や児童養護施設などへの入所措置や、里親への委託といった措置が執られるのである。
亜紀の場合は社会調査で親が見つかることはなかったため、そのまま児童養護施設への入所となった。そして北野夫妻、即ち現在の養父母が現れるまで亜紀が過ごしたその施設こそが、今日、亜紀が訪ねようとしている場所だった。
何と説明すれば良いのかわからなかったので、事前連絡などは特にしていない。行って当時の職員と会うことができれば少しは手掛かりも摑めるかもしれなかったが、その可能性はどの程度あるのだろうかと、亜紀自身も懐疑的だった。それでもとにかく一度は行ってみよう、そんな思いで彼女は家を出たのである。
「藤野若葉園」という名称のその養護施設は、町外れの寂しい一角にあった。バスを降り、人気のない町をしばらく歩くと、その施設が姿を現した。一見すると普通の学校のようにも見える、三階建ての建物である。ここに関する朧げな記憶が、まだ亜紀の心の中には残っていた。
しかし何の当てもなく訪ねてきて、どうすればよいのだろうかと、開かれてはいるが誰の姿もない門の辺りで亜紀は思い迷ったが、そのとき建物の通用口らしき扉が開いて、一人の職員が姿を現した。その中年女性に、亜紀は見覚えがあった。
「小林先生……!」
思わず声を上げた亜紀に、女性は気付いたらしかった。訝しげに眉を寄せた相手を見て亜紀はどぎまぎしたが、嘗て亜紀によく親切にしてくれたその女性職員は、すぐに亜紀が昔の入居児童であるらしいことを悟ったらしかった。
「あら、だあれ?」彼女はにこやかに歩み寄ってきた。「もしかして昔、ここにいた子?」
「はい」と亜紀は答えた。小林の喋り方が何とも懐かしく、モンプエラのことでも何でも、この優しい人になら打ち明けられそうな気がした。「幼稚園の頃までここにいた、北野亜紀です」
「あら、亜紀ちゃん? 亜紀ちゃんなの!」小林は歓声を上げて亜紀の両手を取った。「本当に? あらあ、大きくなったわねえ……」
「はい、本当に、お世話になりました……」
亜紀は思わず涙が込み上げそうになるのをこらえて、小林の手を握り返した。温かい感触が手に伝わった。しばらくそのようにして久闊を叙した後、小林はようやく亜紀に尋ねた。
「ところで今日はどうしたの? 何かあったの?」
「はい」と亜紀は、予め用意しておいた言葉を暗誦した。「小林さんはご存じだと思いますが、私は十七年前の冬、市内の病院に遺棄されているのを発見されました。今もまだ両親は見つかっていないんですが、最近、驚くべきことを知ったんです。私の同級生の或る人が、同じ市内で、全く同じようにして、その頃別の病院の玄関に遺棄されているのを発見されたというんです。それを知って以来、そのことが気になって堪りませんでした。私と彼女は全くの他人の筈ですが、何らかの関連があるんじゃないかと思われてならないんです。小林さん、何か知っておられることはありませんか?」
「まあ、そんなことがあったの……」
小林は驚きの表情を浮べ、それからしばらく思案している様子だったが、やがて残念そうに息をついた。
「ごめんね、手掛かりになるようなことは何も覚えていないわ。私自身、同じ市内でも、若葉園以外の子供たちのことは何も知らないし……。力になれなくて本当に申し訳ないわ」
「そうでしたか。いえ、わざわざありがとうございます」
亜紀は深く頭を下げた。大して期待はしていなかったので落胆することもなかったのだが、小林は実に申し訳なさそうに幾度も謝った。そして或る瞬間、ふと思い出したかのように、「そういえば……」と言い出した。
「何ですか?」
「この施設のことではないんだけれど、十年ぐらい前に、大変な出来事があったのよ。勿論、もうあなたはとっくに若葉園を出た後のことだけれど。隣の市の、ここと同じ児童養護施設から、一人の子供が脱走したのよ。警察のほうでも散々捜索したそうだけれど、全然見つからなかったの」
「脱走……ですか」亜紀は首を傾げた。「その後、どうなったんですか?」
「それがねえ、結局今も見つかっていないの。どこかで元気にしていれば、あなたと同じぐらいの歳だと思うけれど、本当にどうなったのかしらねえ……」
自分の生い立ちと関係のある出来事であるのかは判断がつかなかったが、気に掛かる話ではあった。亜紀は尋ねた。
「どんな子だったんですか、その子は?」
「隣町の病院の玄関に、籠に入れられて置かれていた女の子だったんだけれど、社会調査でも親御さんは発見できなかったの。だからその後は児童養護施設に預けられて、当時は小学校に通っている最中だったのよね」
「私と同じですね」と驚いて亜紀は言った。
「そういえばそうね、奇妙な偶然かしら……。話に聞くところによると、とても頭の良い子だったそうよ。小学校の授業なんか話にもならないといった調子で、先生から中学高校程度の本や教科書を借り出して読んでいたというし……。
脱走の時も、夜は施設も施錠されて警備員も巡回に出ているというのに、巧みに監視の目をくぐり抜けて内側から窓を開け、塀を乗り越えて逃げた痕跡が残っていたというの。とても小学生女児の仕業とは思えない、と囁かれていたわ。その後は全く音沙汰なし、行方は杳として知れないといったところね……」
「そんな子がいたんですか」
亜紀は考え込んだが、それが何を意味するのか、或いは自分の追及している事柄には全く関係しない事件であるのかは、遂にはわからなかった。
小林は別れを惜しんだが、部外者である亜紀を施設内へ招き入れるわけにもいかず、二人はそのまま門前で別れた。亜紀はまた機会があれば来ると小林に告げて、若葉園を去った。
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