第二十六話 蛇苺の記憶

 ――凄いところだね、と言いながら亜紀は周囲を見渡したが、その言葉には実感が籠っていた。確かにこの場所には、何か小さな心をときめかせるものがあったし、誰にも見られないという安心感もあった。二人はランドセルを下ろし、何とはなしに息を潜めた。

 ――ここ、蛇苺もあるんだ。

 幸一はそう言って、日の当っている片隅に生えている、小さな植物の実をむしり取った。手渡された実は、赤く丸い、苺にもやや似た姿をしていた。幸一は、美味いぜ、と言いながら躊躇なくそれを齧った。

 それを見て亜紀も、迷いながらではあったが、ここまで来たのだからといった気持で、恐る恐るそれを齧った。予想された甘みはなく、微かな酸味だけが舌に感じられた。亜紀は舌で果肉を確かめながら、首を傾げた。

 ――余り、味しないんだね。

 ――だよな、でもそれがいいんだよ。

 幸一は言った。亜紀はその意味を考えようとしたが、その相手の言葉が何か言い訳のようで可笑しく、齧りかけの蛇苺を持ったまま、思わず笑いを洩らした。それに呼応するように幸一も笑い出した。二人は森閑とした木立の中で、笑いながら顔を見合せた。

 やがて互いに笑いやんだとき、二人の間にはもう、親しい者同士の持つ空気があった。幸一は言った。

 ――これで、もう友達だ。

 ――うん、友達。

 亜紀もそう言って頷いた。これまでに感じたことのない、強い喜悦を彼女は覚えていた。思いがけずできたこんな友情を、いつまでも大切にしていきたい、そんな思いをも同時に感じた。……

 ……それから二人はよく一緒に遊んだ、と寝台に身を横たえた亜紀は思い返していた。それまで外で活発に遊んだりすることの余りない亜紀だったが、それからは幸一と一緒に校庭で遊びに興じたりもしたし、休みの日には近隣の林や藤野川へ行ったりもした。それまで知らなかった自然の楽しさを教えてくれたのは彼だった、と今でも亜紀は思い出すのだった。

 しかし、彼はもういない。もう亜紀の手の届くことのない遠い世界へ、幸一は行ってしまったのだ。もし今も幸一がいれば、どれほど心強い存在になっただろうか……。そんな想像を巡らせかけた亜紀は慌てて首を振り、眼を強くつむって、それ以上何も考えまいと努めた。


* * * * * *


 桃香は動き始めたバスに揺られながら、外で待っている間に滲み出ていた首筋の汗を拭った。車内の天井には古びた扇風機が取り付けられており、外とは違って涼しかった。

 遂にこの日曜日、彼女は崇天教総本部へ行くことになったのだった。勿論、両親や兄にはそんなことは正直に言ったりはせず、友達と遊びに行くと噓をついている。殆ど噓をついたことのない桃香にとっては、それなりの罪悪感がありはしたが、この際仕方ないと諦めることにした。

 この宗教団体の人々が、どこまでユーストガールという自身の存在について知っているのかはわからないが、あの前代という老人の口ぶりからして、何らかの事情を把握していることは明らかだった。自分の能力について知っているのなら、あのモンプエラという化け物たちの情報も、もしかしたら持っているかもしれない。

 桃香はこれまでに遭遇した化け物たちのことを思い出していた。最初に自分を襲ってきた、あのマンティスモンプエラという少女。そして人間をどろどろに溶かして殺した、あの猫のような大きな耳を持った化け物。歩道橋の上に立っているあの姿を見たとき、思わず桃香は怯んで取り逃がしてしまったのだが、今はそのことがただただ悔やまれた。残酷な殺人狂たち……彼女らは、一体何が目的なのだろうか。絶対に突き止め、そして一人残らず倒さずにはおかない、そう考えながら桃香は拳を握り締めた。

 崇天教総本部は藤野市内の遠山というところにあるのだが、その名の通りそこはかなり山のほうで、バスが走り続けるにつれ、、車窓の景色もまた鄙びつつあった。手持無沙汰のままに、桃香は鞄から一枚の紙を取り出し、広げた。それは先日、前代に貰った崇天教のパンフレットだった。

 「崇天教のご案内」と書かれている表紙をめくり、一頁目の文章を桃香は読んだ。それは次のようなものだった。

『崇天教総本部は、自然豊かな藤野の山の懐に抱かれた地に立っております。この場所こそ、今や世界へ伝道の翼を広げる崇天教の本拠地であり、そして教祖白井純洞先生が、天との交信を行う、宇宙、そして神へと繫がる場でもあります。そして日々、数百人の信徒の方々が、よりよき生活の向上のために、修行を積み重ね、己を磨いている場でもあります。

 しかしこの総本部は、決して閉ざされた空間ではありません。崇天教そのものの寛容を現すが如く、常に外部に扉を開いております。少しでもご関心を持たれた方は、是非お気軽に訪れてみてください。』

 その隣には、「総本部を訪れた方々の声」とする文章があった。

『初めて崇天教のことを聞いたときには「宗教なんて今時……」という気持ちになったのですが、妻に誘われて一度見学しようということになりました。総門をくぐると、すれ違う信徒の方々からにこやかに挨拶され、さわやかな気持になりました。……』

 桃香はそこで飽きて読むのをやめた。幾ら美辞麗句が連ねられていようとも、今の桃香には胡散臭さを感じ取ることしかできなかった。以前に家の郵便受けに投げ込まれていた別の新興宗教の案内に、桃香は眼を通したことがあったが、これを今読んで感じるものも、そのときと何ら違いはなかった。

「次は遠山、遠山でございます……」

 車内放送が響き渡り、桃香は我に返って壁の「おりる」ボタンを押した。ボタンは赤く光り、ただ一人の下車を示した。

 バスを降りると、再び初夏の日光が桃香の首筋を灼いた。そこは本当に何もない、畑や荒地の只中にあるバス停に過ぎなかった。ただ数軒の人家が周囲に点在してはおり、この家の人々のためだけに設置されたバス停ではないかと疑われた。

 一体総本部というのはどこにあるのだろう、と思いながら桃香は辺りを見廻し、それから携帯電話を取り出そうとした。しかしそのとき、一番近くにある人家の蔭から出て来た誰かが、「もし、お姉さん!」と叫んだ。

 見るとそれは、畑の作業でもしていたところなのか、麦藁帽子を被り、手袋を嵌めた老婆であった。先日にもこれと似た体験をしたばかりの気がする、と桃香は思い、咄嗟にすぐにでも逃げ出せる体勢をとった。老婆は歩み寄ってくると、好奇心を隠さない表情で、桃香をじろじろと眺めた。

「どこへ行かれるだね?」

「あの……」と言いかけて、桃香はやや逡巡したが、正直に答えた。「崇天教総本部のほうに、ちょっと……」

「ああ、崇天様の方へ行かれるですか!」桃香が驚いたほどに、老婆は快活に手を叩いて答えた。「崇天様はだね、この道を真直ぐ東へ行ってね……林の中へ入る道があるから、そこへ入ったらすぐ見えてくるですよ」

「ありがとうございます、助かりました」

 桃香はこの老婆も信徒なのだろうかと思いながら、可能な限り快活にそう礼を言った。そして有難く道順を覚え、その場を立ち去ろうとしたが、老婆はすかさず、逃がすまいとするように質問を繰り出した。

「お姉さんも崇天さまの信徒ですかい?」

「いいえ、まだ信徒というわけでは……。でも今日、ちょっと招待して頂いたというか、来られることになったので……」

「そうですか、それは素晴らしい機会に恵まれたことですね……わたしらももう数十年来の信徒ですだが、本当に素晴らしい、尊い教えですだよ、崇天様は。わたしはこの日本を、この世界を真に救うことのできるのは、崇天様のほかにはないと思っとりますわ。なにせ世界でただ一人、神の真理を会得しとる白井大先生がいらっしゃいますからね、うちらには」

 白井……、と桃香はその名を聞いて身震いした。そしてこの身震いは緊張によるものなのか、それとも或る種の感激によるものなのかと思い迷った。しかしまだ彼女自身は、白井純洞というあの人物に対して、何らの思いも持ち合わせてはいなかった。寧ろ強い胡散臭ささえを感じており、自分がユーストガールでなければ、こんなところには絶対に来なかっただろうととさえ思っていた。

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