第二十五話 松浦幸一という少年
夏の日射しは強さを増していたが、その明るさとは対照的に、亜紀は鬱々とした数日を過ごしていた。学校では早穂とも、無理をしていつも通りに接していたが、二人とも互いの態度に、どこかぎこちなさを感じていることは明らかだった。
早穂の話した様々な事柄が、脳裡を容易に離れなかった。合成生物……早穂と同時に病院に遺棄された存在……一体それが何を意味するのか、幾ら考えてみてもわかる筈がなく、それが彼女を堪らなくもどかしい、苛立たしい気分にさせた。
あの話が全て本当であったなら、一体自分の生命は何なのだろう、と亜紀は思った。望まれて生れ、肉親の愛情を受けて育った周りの人々。誰しも当然のように父母の意思、愛によって生れてきたというのに、自分が合成生物として作られ、遺棄された存在であったとしたならば、そんなありふれた人間の出生とは余りに懸け離れた、悲惨な生れ方であると思われて仕方がなかった。勿論、顔も知らぬ自分の両親が望んで自分を産んだのだとも、僅かな間にせよ愛情を注いでくれたのだとも、亜紀は考えぬことにしていた。病院の玄関に棄て去ったという事実が、全てを物語っていると思われたからだ。已むを得ぬ事情でそうしたのだと考えることが、まだしもましな想像ではあったのだが……。
しかし幾ら何でも、こんな出生は余りに惨め過ぎる、そう思って夜毎に亜紀は泣いた。普通の人間の捨て子として生きてくるのさえ、この十数年間、精神的に相当の重圧を彼女に掛けていたというのに、耐え切った先に知った事実がこんなものであったとは。
養父母は確かに自分を愛してくれているし、だからこそ引き取ってくれたのだと亜紀も知ってはいた。しかし自分が得体の知れない合成生物、「モンプエラ」などという存在であることを知ったとき、果して二人はこれまでのように自分を愛してくれるだろうか? その想像は亜紀を戦慄させた。
学校から帰り、一日中自分を圧迫していたそんな想像に疲れ果てて寝台の上に寝転ぶと、亜紀は眼を閉じた。しかし頭にこびり付いた厭な考えは、いつも過去の、厭な記憶というものを蘇らせがちなものだった。
――こいつ、みなし子なんだって?
あの日の記憶が、再び亜紀の脳裡に蘇った。
――うちの兄ちゃんが言ってたよ。みなし子って、親がいないぶん性格が歪んで、犯罪者になる確率が高いんだってさ。
――うわあ、こっち来るなよ、犯罪者菌が移るぞ。
小学校低学年のあの日の教室。自身を嘲弄する言葉の数々は、今に至っても忘れることができない。しかし今蘇った、その記憶には続きがあった。教室の喧騒を破って、そのとき、一人の男子の声が響き渡ったのだった。
――やめろよ、お前ら!
振り向いた亜紀の眼に、同級生の松浦幸一の姿が映った。亜紀を取り囲んでいた男子たちが、一斉に驚いた表情を見せたが、驚いたのは亜紀も同じだった。同級生でありながら、一度も話したことのない男子であったからである。彼は眉を寄せて、居並ぶ男子たちを睨み付けるようにした。
――幸一、お前女のことを庇うのかよ。
――もしかしてこいつのこと、好きなんじゃね?
男子たちは一斉に彼をからかい始めたが、幸一は怯まなかった。
――お前らこそ、大勢で女子一人をいじめるとか情けないだろ。
そう幸一が言うと、男子たちは不平を洩らしたりからかうような笑いを浮べたりしたが、やがてつまらなそうに亜紀のもとを離れた。そして今更のように教室中の視線が自分たちに集中していることを意識したらしく、俄かに羞恥を覚えたように、足早に教室を出て行ってしまった。
――大丈夫?
茫然と坐り込んでいた亜紀に、幸一はそう声を掛けてきた。亜紀は慌てて頷き、次いでお礼の言葉を口に出そうとした。しかし内気な彼女は、話し慣れていない相手に対して、咄嗟に言葉を紡ぐことができなかった。幸一は安心したように頷いて立ち去り、亜紀は何も言えぬまま取り残された。
ようやく幸一を捕まえることができたのは、その日の放課後のことだった。
――松浦くん、待って。
人気のない放課後の廊下で、幸一を待ち受けていた亜紀は、勇を鼓してそう彼に呼び掛けた。黒いランドセルを背負って教室を出てきた幸一は振り返り、亜紀の姿を認めて意外そうな表情を浮べた。
――今日……、ありがとう。助けてくれて。
亜紀が相手と眼を合せ続けることに耐え切れず、うつむき加減にそう礼を言うと、幸一は微笑して歩み寄ってきた。
――いいんだよ。でも俺、なんか亜紀のこと心配だな。
――心配?
初めて名前で呼ばれたことに何となく奇妙な感覚を抱きながら、亜紀は尋ね返した。しかしその感覚は、決して厭なものではなかった。
――なんかさ、と幸一は気まずそうに頰をこすりながら答えた。いつも一人でいるっていうか、そんな感じだから。
――私、友達を作るの、苦手だから……。
そのことは余り、亜紀の触れたくない話題だった。友達が殆どいないということを恥じる気持は強く、再びうつむいてそう答えたのだが、そのとき、思いがけず快活に発せられた幸一の言葉に、驚いて顔を上げた。
――じゃあ、俺と友達になろうぜ!
――え……?
思わずまじまじと相手の顔を見つめた亜紀に、幸一はさもいいことを思いついたといった表情で、畳み掛けるように言った。
――俺と友達になろう。……それとも、厭か?
それは余りにも意外な申し出であったので、亜紀は咄嗟にどう考えていいかわからなかった。しかしそんな亜紀の反応を見て、表情を微かに曇らせた幸一に、亜紀は慌ててかぶりを振って見せた。
幸一は安堵の笑みを浮べると、そうだ、と叫んで、亜紀の手を取った。そして早足に廊下を歩き始め、亜紀は慌てて、どこへ行くつもりなのかと尋ねた。幸一は嬉しそうに振り返ると、こう答えた。
――友達になった印に、いいところ連れてってやるよ。
昇降口を出た幸一は、そのまま亜紀を連れて、校庭の隅にある池のもとへと歩いていった。亜紀はそんなところには殆ど足を踏み入れたことがなく、鬱蒼とした樹々の間へと、彼の後について怖々入っていった。それは校庭を取り囲んでいる木立の一角に過ぎなかったのだが、子供の二人にとっては、まるで大きな森のように見えた。
幸一は樹々に挾まれた小道の半ばで立ち止ると、突然四つん這いになって、傍らの茂みへと頭を突っ込んだ。亜紀は眼を丸くしたが、幸一は服が汚れるのも構わぬ様子で、そのまま茂みの中へと這い進んでいった。木蔭であったので最初はよくわからなかったのだが、よく見るとそこには、灌木と茂みに挾まれたような形の隧道のようなものがあって、幸一はそこへと入っていこうとしているのだということが知れた。
――亜紀も来てみろよ、こっち。
亜紀は僅かに逡巡したが、意を決して屈み込み、ランドセルを背負ったまま、茂みの中へと頭を突っ込んだ。そして頭を出来得る限り下げ、眼をつむって、必死に這い進んだ。するとやがて、辺りが明るくなり、間断なく左右から身体を刺していた小枝の感触がなくなった。亜紀は頭を上げ、眼を開けた。
そこは四方を茂みや灌木に囲まれた、人がやっと二人腰を下ろせるぐらいの、極めて狭い空間だった。上空には薄青い、水彩で塗ったような空が、丸く切り取られて広がっていた。
――松浦くん、ここって……。
――幸一でいいよ、と彼は答えた。ここ、誰も知らない俺の基地なんだ。
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