第二十話 一月の出来事

 二人は木蔭のベンチに並んで腰を下ろし、その外には誰もいない無人の公園を、眺めるともなしに眺めていた。亜紀はたった今、早穂に自分がどのようにモンプエラへと変身したのか、これまでに何が起ったかを、可能な限り詳しく、語り終えたところだった。

「……そうだったんだ」

 早穂は無造作に立ち上ると、ベンチの後ろにある金属柵に歩み寄って、その向うの景色に目を向けるようにした。団地の傍に造られたこの公園は高台にあり、眼下に広がる街を見下ろすことができた。柵に指を掛けて軽く軋らせたが、早穂はそれ以上何も言わず、考え込むような表情のまま、黙り込んでいた。

 いつもよく喋る早穂のそんな様子を見て、亜紀は不安に駆られた。まだ早穂からは、何の話も聞いてはいなかった。考えに耽る相手の時間を大切にしてやりたいという思いもあったが、それよりもまず、早穂の話を聞きたくてならなかった。

「ねえ」と、とうとう耐えきれなくなって亜紀は言った。「私にもまだ、何もわかってはいないんだけれど……、モンプエラって、結局何なの? 早穂も同じなんでしょう、モンプエラなんでしょう? 私たちだけが特別なの、それとも周りの人たちも皆、こういったもう一つの姿を持っていて、そのことに気付いていないだけなの?」

「ああ、ごめん」と初めて気が付いた様子で、早穂は振り返った。「でも、正直私にも、殆ど何もわかってはないんだよね。今日、あいつと戦うことができたのも、以前にあの姿になったことがあったから、ってだけで……」

「そうなの? じゃあ、自分が変身できるってこと以外には、早穂も何も知らないんだ……」

 亜紀は悄然として声を落したが、早穂は慌てた様子でその言葉を遮った。

「いや、でも以前に、説明みたいなものを受けたことはあるんだ。当時の私には何が何だかわからなかったし、相手の正体も不明なままだったけどさ……」

「説明?」と亜紀は尋ねた。「誰にされたの、その説明……って」

「私が初めてこの……半人態、って言うらしいけど、この姿に変身したときのことなんだけど」早穂は頭上の枝葉を見上げながら、金属柵に寄り掛かった。「そのとき、現れた奴がいたんだよね……」

 そう前置きして、早穂は語り始めた。


 それは今から半年前、今年の一月頃のことだった。

 放課後、早穂は普段通りに自転車に乗り、帰宅している最中だった。

 慣れた道でもあり、特に危険を感じることもなく早穂は運転をしていたのだが、或る十字路に差し掛かったところで、突然右側の塀の陰から、一台の自動車が飛び出してきたのである。

 正面の信号は青であり、横断歩道を渡ろうとした早穂に非はなかった。自動車に乗っていたのは六十代ほどの女性で、恐らく故意に信号無視をしたのではなく、恐らくブレーキの踏み間違えか、停止信号であることに気が付かなかったのだろう、と後になって早穂は思った。しかし理由が何であれ、自動車が飛び出してきたことに変りはなかった。そして激しいブレーキ音を立てながらも、その自動車は早穂を跳ね飛ばしたのだった。

 早穂は空中へ投げ出される自分を、まるでスローモーション映像でも眺めているかのように感じた。勢いがそれなりのものであったので、跳ね飛ばされた距離も、恐らく数メートルにも及ぶほどのものだった。道の片側には水のない、乾き切った側溝があり、早穂は地面に叩き付けられて、その中へと転がり落ちたのである。

 無論、それは激しい衝撃と、痛みとを伴うものだった。自転車から引き離されて空中を飛ぶ自分を意識した瞬間、このまま自分は死ぬのかな、と早穂は思った。しかし地面に叩き付けられる寸前、妙な感覚が身体を包み込んだのを感じた。

 それは冷たい空気に身体が包まれるような感覚で、同時に彼女は、視界一杯にほんの一瞬間、白い光が閃くのを見たように思った。しかしそのことについて深く思いを巡らせる余裕なども当然ないまま、側溝の中へと落下したのである。

 ……しばらくして彼女は眼を開けた。目の前に、コンクリートの隙間から生えた一本の雑草が、目の前で日光に照らされていた。視界を覆っているその姿を眺めながら、早穂は必死で全身の感覚を探っていた。衝撃の余韻はまだ体の半身全体に残っていた。しかし思ったほどの痛みはなかった。そのことが早穂に不思議さを感じさせると同時に、却って恐怖をも彼女にもたらした。ともかく起き上ろうと、早穂は恐る恐る、腕を伸ばし、脚を伸ばして、側溝の中で身体を起した。異変に気付いたのはそのときだった。

 先程まで確かに学校の制服であった筈の早穂の服装は、いつの間にか、見たこともないような、奇妙な赤と白の着物に変っていた。そのときの早穂は巫女装束などというものを知らなかったが、まるで昔の人のような服装だ、ということだけはわかった。履いていた運動靴と靴下までが、下駄と白い足袋に変っていた。一体何が起ったのか、理解できる筈もなかった。

 それに加えて、早穂は腰の辺りに奇妙な感触を覚えていた。何か柔らかい、クッションのようなものを腰に敷いているような感覚があったのである。僅かに腰を浮かせてそこにあるものを摑んだ早穂は、思わず叫び声を上げた。

 自分の腰の辺りから、まるで獣のような、太く大きな尻尾が伸びていたのである。摑んだとき確かに、尻尾を摑まれた感覚が腰を通して伝わってくる感覚が異様で、早穂を戦かせた。思わず両手を確認したが、それは普段と何ら変りない、人間のままの手であった。しかし全身を撫で廻し、最後に頭の上に手をやったとき、彼女はそこに獣の耳を発見して、再び愕然とした。

「何……これ……」

 自分の身に何が起ったのか、全くわからぬままに混乱状態に陥った早穂の耳に、車のドアが閉められる音と、何事か叫びながらこちらへ駆け寄ってくる足音が聞えた。それが自動車の主だということはすぐにわかったが、そのとき早穂の頭に浮んだ思いは、この姿を見られてはまずい、というただ一点のみだった。自分の身体が変貌した衝撃は、事故の一切すらをそのとき、早穂の頭から拭い去っていたのである。

 側溝の縁の上に人影が現れた瞬間、早穂は思わず顔を伏せた。しかし相手は訝しむ様子も、驚いた様子も見せなかった。「大丈夫ですか! 聞えますか!」との焦燥に駆られた叫び声に顔を上げた彼女は、自分の身体を見下ろして、そこに普段と何ら変りない、制服を着た自分をそこに見出した。先程まであった獣の耳も尻尾も、跡形もなく消えている。早穂は茫然として、口が利けなかった。

 自動車を運転していた女性は頻りに早穂に呼び掛けていたが、その声は殆ど彼女の耳には入らなかった。側溝から出て倒れていた自転車を引き起してみると、特に壊れた様子はなかったので、そのままぼんやりと、その場を立ち去ろうとした。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 早穂を跳ね飛ばした女性のほうが却って慌て、平謝りしながら自身の連絡先をメモした紙を彼女に手渡した。早穂も連絡先を紙に書いて渡したが、その間も現実感がなく、自転車を引いて近くの公園までやってくると、その場でベンチに坐り込んだ。

「一体……私は……」

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