第十九話 狐巫女

 瞼の裏で変身した自分の姿が閃き、同時に身体が冷たい空気に包まれるような感覚と共に、微かに目の前の闇が明るくなった。亜紀はそれが、自分の身体が変身の瞬間に発する、あの光だということを悟った。

 目を開けたとき、亜紀は確かに変貌した自分を、全身で感じていた。最早頭の猫耳も、腰の尾も、確かめる必要はなかった。空中に右腕を突き出すと、以前も出現したあの銀色の長剣が、輝きながら再び空中に現れ出た。亜紀はその柄を握り締め、真正面から相手を見据えた。

 フロッグモンプエラは槍を握り締めたまま笑みを浮べ、勢いよく飛び掛かってきた。亜紀は素早く飛び上がって突き出された槍を躱し、離れた場所に着地して剣を構え直した。フロッグは濁った唸り声をあげながら振り向き、こちらも両手で槍を握り直した。

 次に二人が飛び出したのは同時だった。振り下ろされた亜紀の剣が、相手の槍を叩き落しかけた。しかし相手は素早くこれを下方から押し上げるようにして、剣と槍の柄とを衝突させた。二つの武器は互いに組み合い、亜紀とフロッグは唸りながら相手を押し返そうと努めたが、或る瞬間にフロッグはこれを断念して後方へ飛び退き、亜紀もまた飛び退いた。

 殆ど間隙を入れずにフロッグは再び飛び出してくると、地を蹴って高く跳躍し、降下しながら亜紀を刺し貫こうとした。しかし亜紀が素早く横へ飛んで躱したので、槍の先は虚しく空中に突き刺さった。

「どうしたんだい、いつまでも逃げてばかりじゃ終わりやしないよ!」

 着地したフロッグはそう叫んで槍を繰り出した。亜紀は俊敏な動きでそれをも躱し、柄を摑むと強く握り締め、引いた。フロッグは怯んだ叫び声を出すと、槍を手放して亜紀を蹴りつけ、大きく跳躍した。蹴りつけられた亜紀は背中から地面に倒れたとき、「亜紀!」と名を叫ぶ早穂の声を聞いた。上半身を起した亜紀のもとへ、彼女は一目散に駆け寄ってきた。

「早穂」と亜紀は言った。「私のことはいいから、早く逃げて……」

「でも……」と言って早穂は亜紀の身体を見下ろした。今は少なくとも、彼女は亜紀の変貌に対して、特別な恐怖心を抱いたりはしていない様子であった。彼女はそれでも驚きは隠せない様子で、まじまじと亜紀の姿を見つめていたが、焦燥に駆られた亜紀の表情をちらと見て、不意に微笑んだ。

「亜紀を見棄てたりなんか、できないよ」

 そう言うと早穂はフロッグを振り向いた。今はその相手は槍を構え、じりじりと歩み寄ってきている最中であったが、早穂が恐れる様子もなく自分のほうを見遣ったのを認めて、訝しげな表情を浮べた。亜紀にも、何故早穂が激しく狼狽した様子を見せないのか、理由がわからなかった。

 早穂は一歩、前へと踏み出した。そして目を閉じ、両腕を大きく広げた。その次の瞬間、彼女の全身が突如として、白く光り輝いた。フロッグが驚いたように立ち止り、亜紀も何が起ったか理解できぬまま、光のまばゆさに思わず眼をつむった。やがて恐る恐る瞼を開いた彼女は、そこに立っていたものを見て思わず眼を瞠った。

 それは確かに早穂に違いなかった。しかしその姿は、先ほどとは全く違うものになっていた。元々明るい茶色だった髪は、橙色に近いほどに明るくなり、そして頭からは、三角形の、動物そのものの大きな耳が生えていた。服装も最早制服ではなく、神社の巫女装束にも似た、白い小袖のような服に、緋色の袴のようなスカートの姿に変貌していた。そしてその腰からは、ふさふさとした橙色の、大きな獣の尾が生えていた。亜紀は愕然として、立ち上ることも忘れ、その姿をただ見つめていることしかできなかった。

「まさか……早穂も……?」

 一体何が起ったのか、眼前の光景を目にして理解している筈ではありながら、それを受け入れることができなかった。間違いなくたった今、早穂はモンプエラとしての姿に変身したのだ。しかし何故、彼女までが自分と同じ、第二の姿を持つ存在であったのか、亜紀には信じられぬ思いだった。

 しかし早穂は、もうそれ以上は亜紀には注意を払わなかった。目の前に立つ敵を睨み据え、そして空中に片手を差し出して、そこから一丁の銃を取り出した。木製の、銃身の長い小銃であった。早穂はそれを手に取ると、無言で銃口を敵へと向けた。

 フロッグは流石に驚いた様子を隠せずにいるようだったが、やがて嘲笑にも似た笑みを浮べた。

「なんだね、お仲間のお出ましか。一体何の用なんだい。こいつは私の獲物だよ」

「今すぐここから立ち去りな。亜紀に危害を加えさせはしない」

 早穂の返答を、フロッグは鼻で笑った。そして再び三叉槍を構え、一直線に早穂に向って駆け寄ってきた。早穂は素早く撃鉄を起し、引金を引いた。響き渡る銃撃音と共に銃弾が発射され、反動で銃身が微かに揺れた。しかしフロッグは大きく跳躍してこれを躱し、一気に早穂に迫った。二発目を発射する余裕はなかったようで、早穂は銃を横向きにして、防禦の姿勢をとった。

 槍と銃身とが、激しくぶつかり合った。槍の尖端は木製の銃身に食い込み、そこからは微かな音を立てながら、白煙が上り始めていた。早穂とフロッグとは、互いに唸り声を上げながら相手を押し負かそうとしたが、やがてフロッグは再び飛び退いて、高く空中へと跳躍した。

 早穂と亜紀は上空を見上げた。フロッグは再び、鉄筋アパートの最上階の壁に、槍を握ったまま、左手と両足とでぴったりとしがみついていた。そして上体を反らせて地上の二人を見下ろし、濁った唸り声を上げた。

 亜紀はようやく我に返り、立ち上った。そして剣を拾い上げたが、そのとき早穂が間髪を入れずに傷付いた銃を構え直し、銃撃を行った。

 フロッグは慌てて壁面から飛び降りようとした様子だったが、その動きは一拍遅かった。弾かれたように彼女は壁面を離れ、空中を落下していった。硝煙の上っている銃を構えたまま、早穂は亜紀を振り返り、小さく頷いた。そのとき砂利を踏む音がして、地面に墜落したフロッグが、ゆっくりと起き上った。しかしその片腕には大きな傷が開き、鮮やかな赤色の血が、そこから流れ出ていた。腕を庇い、苦痛に顔を顰めながら、フロッグはよろよろと立ち上った。

「飛び道具とはやってくれるじゃないか……。しかし、勝つのは……」

「亜紀! 今!」

 早穂の叫び声に、亜紀ははっとして剣を構えた。その時俄かに雲に切れ間ができ、射し込んだ光が亜紀を明るく照らし出した。上空を見上げた早穂は、鮮やかな青空の一片が、そこに現れたのを見た。フロッグモンプエラは眩しそうに目を細め、手で顔を隠しながら逃げ出そうとしたが、亜紀はそれを逃がさなかった。大きく跳躍すると、敗走するフロッグの正面に着地して立ち塞がった。敵は怯んだ様子で、一瞬間立ち止った。

 大きな掛け声と共に振り下ろされた亜紀の長剣が、空中を一閃し、フロッグの身体を切り裂いた。濁った叫び声が響き渡り、次の瞬間、フロッグモンプエラは爆発を起して、その身体は粉々に吹き飛んだ。

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