第十八話 覚悟
一九八九年の世界同時多発テロから二十五周年を迎えるこの日、教壇に立った亜紀の学級の担任教師も、思い出を交えながら帰りのホームルームで、その話題を持ち出した。
「君たちはあのとき、もう生れてた? いや、生れる前か、そうか……平成になったばかりの出来事だったもんな。僕は当時、町田のほうに住んでて、東京とも頻繁に行き来してたんだけど、もしかしたら巻き込まれてもおかしくなかったかもしれなかったね……。そのとき、僕は玉川線の地下鉄に乗っていた。急に電車が止ったから不思議に思ったら、半蔵門線と千代田線が爆破された、霞ヶ関の官庁街に飛行機が墜落した、なんて周りの誰かが言い出して……。まさかそんなことが、と思って地上に出たら号外が配られていて、全て本当のことだと初めて知った。数年前にも東京でバスが爆破されるテロがあったけれど、早くこんな物騒な世の中でなくなるといいよなあ……」
そのとき、お調子者の男子の一人が声を上げた。
「あれ、あれでしょ? ブラックなんとかってテロ組織のやつ」
「ブラックローズ、よ」途端にざわめき出した教室を制するようにそう答えたのは、由依だった。「正式には、ブラックローズ・バトルフロントライン」
「おお、流石は学級委員だな」教師は満足げに頷いた。「因みに、まだ話してなかったが……、このテロ組織の目的も知っているか、清須?」
「はい。ブラックローズは世界の全ての国家を滅ぼし、政府の存在しない世界を作ろうとしていました。このテロもその準備として計画されたものだったとのことです」
「そう、完璧な答えだ」
「マジで?」と最初に声を上げた男子が叫んだ。「全ての国家を敵に廻すとか……頭おかしいじゃん、そいつら」
「テロ組織なんて頭おかしくて当り前だろ」と別の生徒が叫び、どっと笑い声が起った。その喧騒ぶりに、教師は苦笑して両手を振った。
「はいはい、そろそろ時間だから最後に連絡事項だけ言うぞ」
ようやく静かになった教室の中で、教師の言葉をぼんやりと聞きながら、亜紀は無言で視線を伏せていた。二十五年前のテロのことを考えているわけではなかった。教師が話の中で触れた数年前のバスの爆破事件、不意に持ち出されたその事件の話題が、彼女の心の古傷を抉ったのであった。
西暦二〇〇八年、即ち平成二十年の夏、東京都千代田区を走っていた一台の路線バスが、路上で突如として爆発し、炎上した。バスには当時八名の乗客と一人の乗務員がおり、その内乗客三名と乗務員は無事に脱出したが、残りの五名は死亡が確認された。警察の捜査の結果、バスの下部に爆弾が取り付けられていたことが判明し、直ちにテロと断定して捜査が進められたが、これは一向に進展せず、連日テレビや新聞の紙面に現れていた報道も、やがて静かに消えていった。
何年か経って、或る暴力団の事務所が警察により摘発された際、大量の爆薬や銃器が発見され、これがバス爆破事件に関係するものであったかのような報道がなされたが、これも結局曖昧に終っている。真犯人が誰であったのか、バスを爆破した目的は何だったのか、結局何一つとして、明らかになることはなかった。既にその事件も六年も前のこととなってはいたが、それが何故亜紀の心を今も痛ませるのかと言えば……。
「亜紀! 一緒に帰ろ!」
声を掛けられ、亜紀は驚いて顔を上げた。既にホームルームは終り、生徒たちは三々五々教室を出て行っているところだった。目の前に立つ早穂と奈緒に微笑して見せ、亜紀は慌てて立ち上った。
校門のところで奈緒と別れ、二人で肩を並べて自転車を押しながら、最初に口を開いたのは早穂だった。
「ねえ、担任がさ、世界同時多発テロの話をしてたじゃん?」
「うん」と答えながら亜紀は顔を相手へ向けた。早穂の持ち出したのが六年前の事件ではなく、二十五年前のテロの話であることに少しの安堵を感じ、同時に微かな罪悪感を抱いた。早穂はそんな亜紀の心情は露知らずに話を続けた。
「実はうちの父親も、結構あのとき危なかったらしいんだよね」
「本当? 巻き込まれそうだったの?」
「うん。別に霞ヶ関に勤めるエリートとかってわけじゃないんだけど、そのときは偶々社用で、社の人と車に乗ってそっち方面に向ってたんだって。そうしたら通行規制が掛かってて、それ以上先に進めなくなった。窓を開けて前方を眺めたら、ビルが何本もぶっ壊れてて、物凄い炎と煙が上がってたって……。後になって飛行機が墜落したと知ったそうだけど、もし時間がずれてたら自分も……っていうね」
「そうだったの」亜紀は驚いて答えた。「じゃあ、もしお父さんが巻き込まれていたら、早穂も……」
「ああ……うん」と早穂は複雑な表情を浮べた。「少なくとも……今ここにこうしていることはなかったかもしれないよね」
そのとき唐突に、どこからか得体の知れぬ笑い声が聞えてきた。
最初、亜紀はそれを自分の聞き間違いではないかと思った。しかし横を歩いている早穂までもが不審そうに辺りを見廻し始めたのを見て、確かにそれがどこからか聞えてくるものだということを悟った。濁った、蛙のようなその笑い声に、そのとき亜紀は、思い当る節があることを思い出した。
「まさか……」
そのとき、どこからか飛んできた棒のようなものが、凄まじい勢いで二人の目の前の地面に突き刺さった。驚いて身を引いた亜紀と早穂は、斜めに刺さったそれが、黒く長い柄を持つ三叉槍であるのを認めた。地面からは微かに、白煙が上っていた。
亜紀は瞬時に、槍が飛んできた方向と思しき、道路の片側を振り返った。そこは団地になっており、幾棟かの鉄筋造りの建物が立ち並んでいる場所であったのだが、亜紀は道路に面した一棟の壁面、それも遙か上の五階の辺りの壁に、貼り付いている何者かの姿を認めた。たった今槍を地上の二人に投げつけたばかりの、左手と左足だけを壁面につけて、半ば身体をこちらへと向けた姿勢になっているその少女の姿は、確かに亜紀が以前に見たことのあるものだった。
「あれは……あのときの……」
亜紀は傍らの早穂を振り向いた。彼女もまた、驚きの表情を浮べて壁面に貼り付いているフロッグモンプエラを見上げているところだったが、まだ自身に危険が迫っていることには気が付いていないに違いなかった。最早戦いは避けられぬ状況にあることは明らかだったが、早穂と一緒にいるところを狙われたというのは、余りに痛かった。彼女を巻き込むわけには絶対にいかないし、変身するところを見られるわけにもいかなかった。
しかし後者は今は二の次だ、と亜紀は思った。とにかく早穂を安全な場所まで避難させなくてはならない。幾ら不審に思われようが、今はどうでもいいことだった。
それでも尚も思い迷いながら、亜紀は「早穂」と傍らの友人に呼び掛けた。
「ここは危ないから……今すぐ自転車で逃げて……」
「え、何言ってるの?」
振り向いた早穂は眼を丸くした。わかってもらえないのも、今は仕方のないことだった。最早、なりふり構わずに彼女をここから去らせなければ、と亜紀は決心した。
「ここは私が何とかするから! 今すぐ早穂はここから逃げて!」
「い……いや、待って」
早穂は戸惑ったように手を振った。その次に彼女の発した言葉は、亜紀の予想を大きく裏切るものだった。
「亜紀こそ、早くここから逃げてよ。そんなに危ないんなら……」
「何言ってるの!」
亜紀が愕然として叫んだ。まだ早穂には、何の危機感も伝わっていないようだった。もどかしさに地団太を踏みたい思いに駆られながら、亜紀はフロッグを指差した。
「あれは本当に危ない奴なの! このままじゃ、私も早穂も……」
「何を言い争っているんだい?」
濁った笑い声を響かせながら、フロッグは地上へと飛び降りてきた。亜紀は瞬時に早穂との会話を中断し、自転車を地面へと倒して身構えた。そんな亜紀の様子とフロッグとを、早穂は尚も戸惑った表情で見比べていた。
フロッグは道路へ出てきて亜紀たちの真正面に立ち、空中へ片手を突き出して、新たな三叉槍をそこから取り出した。
「やあ、猫のモンプエラちゃん……今度こそは勝負をつけようか」
そう言って槍を構えた相手を見て、最早変身するしかないと亜紀は観念した。自分のもう一つの姿を見られてしまうというのは、考えてみるだけでも恐ろしいことであったが、早穂の命を犠牲にするよりはどれほどいいか知れなかった。亜紀は早穂を庇うように一歩前に踏み出ると、目を閉じた。
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