第十七話 生徒会長・水野碧衣

 あれからしばらくの間、桃香はモンプエラと遭遇することはなかった。ユーストステッキは常に鞄の奥底深くに入れていたが、取り出して使うような機会も当然なかったわけである。本当ならばこんなステッキなどを持ち歩きたくはなかったのだが、しばらく前に遭遇したあの殺人事件のことを考えると、いつでも変身できるようにしておかなければならないとの思いは強かった。

 あの日、確かに被害者の悲鳴を感知していたにも関わらず、委員会会議のために現場へ到着するのが著しく遅れ、結果としてモンプエラの魔手から人を救い出すことができなかったという事実は、桃香の心に強い禍根を残していた。何故あのとき自分は、会議を抜け出してでもすぐに駆け付けなかったのだろう、と幾度か彼女は考えた。そこで気付いたのは、未だに自分には、ステッキを手に入れたことで得られたこの能力が、人を救うものであるということへの自覚が薄かったのだ、ということであった。

 詳しい事情は全くわからなかったが、モンプエラという化物が市内に出没し、次々と殺人を行っているということは、最早間違いのない事実であるらしい。そしてユーストガールなるものへ変身した桃香は、この化物らを倒すのに有効な能力を備えていることも明らかである。しかしまさか二人目のモンプエラが本当に存在しているとは、マンティス一人を相手にしただけの桃香には考えられないことであった。いや、化物があれ一人だけでないことを、認めたくない気持も大いに作用していたのかもしれない。

 私はもう、普通の高校生として生きていくことはできないのかもしれない、と校門をくぐりながら桃香は考えた。この力を手に入れてしまった以上、そして化物による殺人が後を絶たぬ以上、人々の命を救うことに一生を懸けるしかないのかもしれない……。そんな想像は彼女を陰鬱な気持にさせた。

「おはよう、桃香!……あれ、どうしたの?」

 背後から声を掛け、それから素早く前方へ廻り込んできた絵里に、桃香はすぐには反応することができなかった。桃香の暗い表情を見て、絵里は驚いたように目を丸くした。

「あ……いや、何でもない」桃香は慌てて手を振った。「ほら、中間試験の結果が思ったより良くなくて……気分が落ち込んでただけ」

「ああ、中間試験か」絵里は溜息をついた。「わかる……返却されないならいいのになあ、テスト。私なんてもう数学が壊滅的で……」

 良かった、上手く誤魔化せたらしい、と桃香は内心で安堵の息をついた。実際のところは、先月下旬に行われた中間試験の成績はまずまずのところで、父母や兄にも褒められたし、悩みの種になどなる筈もなかったが、咄嗟のところで機転を利かせたのであった。

「来月はもう期末試験でしょ? 本当に厭んなっちゃうよねえ」

「本当ねえ、もっと力を入れて勉強しないと……」

 そんな話をしながら靴を上履きに履き替え、絵里と共に教室の前へと来た桃香は、そこで思わず足を止めた。意外な人物の姿を、そこに見出したからである。

 生徒会長、水野碧衣。三年生であり、普段こんなところで一度も目にした試しのない彼女が、何故か二年生の教室が並ぶ廊下の、しかも桃香の教室の前に、腕を組み、壁に背を凭せるようにして立っていた。薄暗い廊下でも、すらりと背の高いその姿は、随分と目立って見える。立ち止った桃香を訝しげに振り向いた絵里も、前方へと目を向けて小さな声を上げた。

「あれ、生徒会長だ……どうしてこんなところにいるんだろう」

「い、行こう……絵里……」

 以前に廊下で肩をぶつけてしまったときの記憶が、桃香の脳裡に鮮明に蘇った。あの冷たい視線を向けられたときの、戦慄が背中を駆け抜けたあの感覚、あれを再び味わいたいとは思わなかった。絵里の背に隠れるようにしてその袖を引いたとき、思いも寄らなかったことが起きた。碧衣が二人のほうへと向き直り、歩み寄ってきたのである。

「え……?」

「お、おはようございます!」

 桃香は怯えた声を洩らして身を引き、絵里は硬直したように姿勢を正して挨拶をした。碧衣は無言で歩み寄ってきたが、その視線は確かに真直ぐに二人を捉えており、桃香にはその意味するところが全く理解できなかった。何故碧衣が自分たちのもとへとやってきたのか、皆目見当がつかなかった。

「佐々井、桃香さんね」

 碧衣は二人の正面に立つと、絵里には目もくれずに、そう桃香を見つめて問い掛けた。桃香は茫然として背の高い相手を見上げたが、やがて小さく絞り出すように、「そうです」と答えるのが精一杯だった。

 碧衣は一切の感情を遮断したような無表情のまま、小さく頷いた。

「あなたに、話がある。ついて来なさい」

「話……ですか……?」

 慌てふためく桃香にそれ以上の言葉を与えず、碧衣は背を向けて歩き出した。桃香は激しく狼狽しながら助けを求めるように絵里を振り返ったが、勿論彼女にもなす術はなく、ただ心配そうに桃香を見つめ、頷いてみせるのみだった。桃香はやがて断念して、鞄を持ったまま、碧衣のあとをついて廊下を歩き始めた。碧衣が歩を進めるにつれ、その長いた髪が揺れるのが、強い不安を以て桃香の眼に映った。

 やがて碧衣は生徒会室の前で立ち止り、扉を細目に開けて中を覗いた。しかしすぐに、眉間に皺を寄せて扉を閉めた。

「生徒会の連中がいたわ。……いいわ、こちらへ来なさい」

 そう言って身を翻し、今度はすぐ脇にある階段を上っていった。その後に続きながら桃香は、どうして他の人達がいる前では話すことができないんだろう、と不審に思った。恐怖と、そのとき微かに芽生えた好奇心とが、彼女の中で相克した。

 碧衣と桃香が辿り着いたのは、最上階の化学室だった。最上階へ続く階段は幾つかあるが、それぞれ二三の教室と便所にしか繫がっていない構造になっており、フロアを貫く廊下はない。当然、用のない限りは生徒が来ることもなく、二人がやってきた場所にも、誰の姿もなかった。

 碧衣はがらがらと扉を開け、中に誰もいないことを確認してから、促すように桃香を振り返った。桃香は深呼吸をして扉をくぐった。

 化学室は広かった。朝の光線が、模型や実験器具が収められた硝子戸棚、厚みのある机、その傍らに備えつけられた蛇口などを、静かに照らしている。碧衣は廊下から盗み聞きされることを恐れるように、机の間を奥へと歩いていき、窓に近い一つの机に凭れて腕を組んだ。桃香はその傍らに立った。

「あの……、何の御用でしょうか?」

 桃香は相手の表情を窺いながら、おずおずと尋ねた。

碧衣は桃香と眼を合せようとはせず、しばらく考え込むように日光に照らされた床を見つめていた。しかしやがて顔を上げ、桃香を真正面から見据えて口を開いた。

「あなたが、奇妙なことをしているという噂を聞いた」

「奇妙なこと、ですか……?」

 まさか、という思いが桃香を戦慄させた。動揺を悟られまいと不思議そうに首を傾げてみたが、無表情で自分を見つめている相手は、本当は全てを見透かしているのではないかという気がして仕方なかった。

「そう」と碧衣は答えた。「私も詳しく聞いたわけではない。でもあなたを目撃した人は、あなたが実に不思議な格好をして、誰かと取組み合いの喧嘩をしていたというの。心当りは、ある?」

「いいえ、全くありません」桃香は反射的に答え、それから戸惑いを露わにしたという風に続けた。「取組み合いの喧嘩なんて、私、全然そんなことをする質じゃありませんし……不思議な格好だなんて言われるような服も、持っていませんよ」

 そう言って、桃香は苦笑してみせた。

 碧衣は無言で桃香を見つめ続けていた。沈黙が続くにつれ、桃香の動悸は高まった。一体どこまでを目の前の生徒会長は知っているのか、何を目的としてこんなことを尋ねるのか、皆目見当がつかなかった。しかしそれらの疑問を、そのまま相手にぶつけるわけにはいかない。やがて沈黙に耐えられなくなった彼女は、自分にとっての切実な問いを発した。

「そもそもそれは……、どなたから聞かれたお話なんですか?」

「それは答えられないわ」

 相手の返答はにべもないものだった。

「悪いけれど、相談してきた生徒の氏名を明かすことはできない。とにかくあなたはこの件については一切心当りがない、それでいいのね」

「はい」と不満を押し隠しながら桃香は答えた。この重苦しい空気の中から、一刻も早く逃れたかった。「これ以上、お答えすることはございませんので……これで失礼します」

 碧衣は机に腰を凭れさせた姿勢のまま、小さな頷きを桃香に与えた。桃香は安堵して一礼し、机の間を縫って教室の出入口へと向った。しかし扉に手を掛けたとき、背後から突然、思い出したかのように声を掛けられた。

「佐々井さん。あなた、神というものを信じる?」

「神……ですか?」

 余りにも意外な質問に、桃香はすぐには答えられなかった。一瞬、彼女は相手がふざけているのではないかと思った。しかし教室の向うから桃香を見つめる碧衣の表情は、どこまでも真剣だった。

「わかりません、それは……。失礼します!」

 逃げるようにして扉を閉め、大きく息をついたとき、目の前の階段の踊り場から、誰かが駆け去っていく影がちらと見えた。まるで二人の話を盗み聞きしていたかのように、その何者かは、桃香が教室を出てきた途端にその場から駆け去ったのである。

 すぐに階段を駆け下りれば追いつける可能性もあったが、一瞬間前まで極度の緊張を強いられていた桃香に、そんなことができる筈もなかった。茫然として、何者かが消え去った後の無人の踊り場を見下ろしていた後、彼女はゆっくりと階段を下りた。教室へ戻ると、絵里と詩織が息を切らせて駆け寄ってきた。

「ねえ、どうしたの? 何があったの?」

「どんな話をされたの? 生徒会長、何て言ってた?」

 二人に質問攻めにされた桃香は、どう答えればよいのかとしばし戸惑った。しかし瞬時に機転を利かせ、こう答えた。

「ううん、別に何でもなかった。委員会の仕事がきちんと進んでるかどうか、進行状況をちょっと聞かれただけ。単に、それだけのことだよ」

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