第十六話 孤児

「世界各国に大きな衝撃を与えた、一九八九年の世界同時多発テロから、今日で二十五年の節目を迎えます。日本を初め、被害に遭った各国では、大きな追悼行事が行われることが予定されています。

 一九八九年六月十日。国際テロ組織『ブラックローズ・バトルフロントライン』、通称『ブラックローズ』は、日本、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、西ドイツの六ヶ国に於て、旅客機のハイジャックや主要都市への毒ガス撒布、公共交通機関や政府機関の爆破などの大規模なテロを実行しました。数千人に及ぶ死者が発生した前代未聞のテロ事件に、世界は衝撃に包まれました。

 事件後、世界各国に支部を置いていたブラックローズは各国の軍や警察により壊滅し、一連の事件の指導者と目されるダーナル・スミスも、米軍により殺害されたと発表されました。しかし事件の傷跡は、二十五年の歳月が過ぎ去った今も、世界各地の人々の心に深く残っています。……」

 テレビのニュース画面は切り替り、霞ヶ関の官庁街に於けるテロで夫を失ったという、初老の女性の姿を映し出した。亜紀はトーストを齧りながら、インタビューに答えるその女性の姿を眺めていた。事件自体は自分が生れる十年近く前のことであり、当時を経験してはいなかったが、本やテレビで見聞きする度に、それがどれほどに大きな事件であったのかは理解できた。

 ブラックローズというテロ組織が目指していたのは、あらゆる国家の存在しない世界であったという。無政府主義、またはアナキズムとも呼ばれる考え方があり、ブラックローズはその過激派に当るそうであるが、当然のことながら亜紀には、到底理解できぬものでしかない。一体国家が消滅してどうやって人々は生きていくものであるのか、もしその思想が正しかったとしても、あのテロにどのような正当性が与えられるものであるのか。数千人の無辜の人々を殺害したことが、一体彼らにとって何の意味を持つものであったのだろう……。

 しかしそんな昔の事件よりも、亜紀には考えねばならぬ喫緊の問題があった。先日出会ったモンプエラが口にした、亜紀の世界観を変えるほどに衝撃的であった言葉についてである。

 フロッグモンプエラと名乗った少女の言葉を、あの日以来幾度となく、亜紀は反芻してみた。短い会話であり、得られた情報は非常に少なくはあったのだが、確かに相手が明言したのは、亜紀がモンプエラと呼ばれる彼女たちと同類の存在であり、人間ではないということであった。

 お前は実は人間ではないのだと言われて、そう簡単に信じられる筈はなかった。しかし実際に亜紀の身体には、他の姿への変身という、通常では考えられない事象が発生している。あの猫の耳も尾も、確かにあの姿では自分の身体の一部として存在しており、常識で説明することのできる問題ではなかった。

 モンプエラとは一体何なのだろうか。前に出会った鎌を持つ少女は自らをマンティスモンプエラと呼び、先日の濁った声を出す小柄な少女は、フロッグモンプエラと名乗った。背中の翅による飛行、ビルの側面に貼り着き地上へ飛び降りること、これらを見てもモンプエラという存在が超人的な能力を有する存在であることは疑いない。そして実際に亜紀自身も、一度あの姿に変身すれば、普段では考えられぬほどの身体能力を得ることができているのだ。普段の姿でマンティスやフロッグに立ち向っても、呆気なく殺されるだけであったろうが……。

 やはり自分がモンプエラというものであることは、間違いのない事実であるらしい。登校して席に着いても、亜紀はずっとそのことについて考え続けていた。

 自分が人間ではない何かであるとするならば、当然それは、出生の問題に関わってくる筈である。父の顔も母の顔も知らない亜紀ではあったが、それまで両親が人間ではない何かであるとは、当然ながら、想像してみたことさえなかった。両親という存在は、幼い頃からずっと、曖昧糢糊とした、霧の向うにいるかのような存在として思い描かれていた。

 実の両親、それは自分を生み出した存在として、狂おしいほどに会いたい、思慕の感情に駆られることもあれば、親という義務を放棄して自分を棄てた存在として、激しい憎悪の対象となることも幾度となくあった。今でこそ或る程度は割り切ることができていたが、長らく不在の両親は、彼女の苦悩の種であったのだ。そうならぬ筈がなかった。

 ……小学校低学年の頃のことが思い出される。

 その頃まで亜紀は、普段一緒に暮しているのが実の両親ではないということについて、それほどに気にしたことはなかった。いつ打ち明けられたのは最早記憶にはないが、そのころにはもう知っていたのだから、相当に幼い頃から、養父母は亜紀が実の子でないことは教えていたのだろう。しかし亜紀にとっての「お父さん」も「お母さん」も、ただ一つの存在しか知りはしなかったのだから、それはさして大きな問題であるとは思われなかったのだ。

 しかし二年か三年の頃だろうか、亜紀が養子であるという情報が、どこからか洩れて同級生たちの間に知れ渡った。別に亜紀自身は隠していたわけではなかったが、特に人に話すということもなかったので、どこから話が広まったのかは定かではない。後になって思えば、近所に住んでいた子供たちの誰かが、親から聞いた話を同級生に流して、それが広まっていったのだろうと思われる。

 そして或る日の昼休み、噂を聞きつけてきた同級生の男子数人が、亜紀のもとへとやってきた。彼らは席に坐っていた亜紀を取り囲むと、可笑しそうに口元を歪めて嘲り始めた。

 ――こいつ、みなし子なんだって?

 ――親に捨てられたって本当かよ。

 ――捨てられて、他人に拾ってもらったんだ。

 亜紀は衝撃に打たれて固くなっていた。こんなに明瞭な集団の悪意に晒されるのは、これが初めてのことだった。どうすればいいのかわからず、救いを求めるように他の同級生たちのほうへと眼を向けたが、やや離れたところで喋っていた女子たちも、気まずそうに視線を逸らすだけだった。

 男子たちの嘲弄は尚も続いた。

 ――うちの兄ちゃんが言ってたよ。みなし子って、親がいないぶん性格が歪んで、犯罪者になる確率が高いんだってさ。

 ――うわあ、こっち来るなよ、犯罪者菌が移るぞ。

 ……それらの言葉は、今も心の片隅にこびり付いて忘れられなかった。それまでは余り意識することも少なかったし、それは両親が自分に負い目を感じさせまいとする努力のお蔭でもあったのだろうが、やがてこんな形で、世間の冷笑を浴びることは避け得なかったのだ。それからの亜紀はどこか内気になり、両親に対していやに卑屈になったり、反対に反抗的な態度をとったりした。そして浴びせられた言葉を思い返しては、隠れて泣いた……。

「ねえ、亜紀? 亜紀ってば!」

 声を掛けられて亜紀は我に返り、驚いて顔を上げた。目の前に早穂が立っていることに、今の今まで気付かずにいたのだった。

「あ……ごめん」

「何か邪魔しちゃった?」と早穂は首を傾げて笑った。「あのー……実は今日の日本史の宿題やってくるの忘れちゃったんだけど、ちょっと見せて貰ってもいい……かな?」

「うん、いいよ」

亜紀はファイルからプリントを取り出した。

「ありがとう!」と叫んで早穂は白紙のプリントを広げ、亜紀のものと見比べながら空欄を埋めていったが、そのとき彼女の背後から迫る影があった。その相手は大きくわざとらしい咳払いをしたが、早穂は気付かず、相手が彼女の肩に手を置いて声を掛けるに至って、ようやく振り向いた。

「名取さん、宿題は自分でやらないと意味がありませんよ」

「き、清須さん? いつの間に!」

 由依の登場に面喰らった声を上げたが、次の瞬間にはちらと壁の時計を確認し、再び机に覆い被さってシャーペンを走らせ始めた。

「名取さん! 駄目ですよ!」

「ごめん、私もいつもはちゃんとやってるの!」早穂は悲痛な声で叫びながらも手は止めなかった。「ちゃんとやらなきゃいけないとはわかってるの! でも一限だから、間に合わないから!」

「清須さんの言う通りだぞ、早穂」現れた奈緒が咳払いをして、わざと鹿爪らしい口調で説教を始めた。「やってこなかったのなら、観念して白紙のまま提出しなさい!」

「助けて亜紀! みんなが真面目に宿題をしている私を邪魔するの!」

 亜紀は苦笑して、揉み合いを始めた早穂たちを眺めていた。しかしそんな級友たちの中に身を置いている内に、先程までの憂鬱な思いがやや晴れたような気もして、何とはなしに安堵の息をついた。もう自分は孤独ではないのだ、この友人たちがいるのだから、そう亜紀は心の内に呟いた。

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