第十五話 銀剣現る
亜紀は茫然として、答える術を知らなかった。ビルのあれほど高い側面に貼り付いていたことといい、そこから軽々と飛び降りて目の前に降り立ったことといい、この少女は明らかに人間離れしている。相手の言っていることの意味は瞬時にはわからなかったが、「モンプエラ」という言葉には聞き覚えがあった。それは、あの鎌を持った、緑色の少女が口にした言葉かもしれない。とすれば……この少女もあれの同類なのだろうか。
亜紀の困惑をよそに、少女は再び口を開いた。
「あんたさ、マンティスの仕事の邪魔をしたって言うじゃないか。何故なんだい? あんたも私たちと同じ、モンプエラだろう?」
「私たちと、同じ……?」
相手が何を言っているのか、亜紀にはわからなかった。目の前の人間離れした少女と、一体何が同じだというのだろうか。しかし次の瞬間、猫の耳と尾のようなものが生えた姿となった自分のことを、ふと亜紀は思い出した。その二つが結び付いたとき、相手が言わんとしていることを朧げながら理解して、一挙に亜紀は蒼褪めた。
「……私は、ただの、人間の筈……」
その言葉を聞いた少女は笑い出した。まるで蛙のような、濁った奇妙な声を立てながら笑った。亜紀は俄かに自分を襲った不安と焦燥とに駆られながら、相手が哄笑する様を眺めていた。
「これは驚いたね。冗談のつもりかい、それとも記憶喪失にでもなっているのかい? 自分が何であるかを忘れてしまうなんてねえ」
「私が……一体何だというの……」
「そりゃ、モンプエラさ」少女は鼻で笑った。「ただの人間だなんて、とんだ冗談だねえ。あんたもあたいも、そんなものを遙かに超越した存在じゃないか。そして人間を殺すことを使命とする、そうだろう?」
衝撃的な相手の言葉を、亜紀は受け入れることができなかった。強くなり始めた雨に打たれながら、殆ど無意識に彼女は叫んでいた。
「噓よ! 私はそんな生き物じゃない、人間を殺したりなんかしない!」
「強情だね、あんたも。本当に自身の存在する理由も意味も忘れてしまっているのなら、そんなモンプエラは殺してやる」
少女は俄かに、憎々しげな表情で亜紀を睨みつけた。
「所詮、人間の力ではモンプエラに敵いはしまいよ。自分を人間だと言い張り続けて殺されるか、正体を現してあたいに立ち向うか、二択だよ。さあ、かかってきな」
喉を鳴らして、少女は右腕を空中に突き出した。すると忽ち、何もない筈の空中から、真黒に塗られた、長い柄の三叉槍が姿を現した。少女は慣れた手つきでその柄を摑むと、一回転させて三叉の先を亜紀に向けた。
亜紀は激しく戸惑い、逡巡していた。今すぐにでも逃げ出したかったが、足は凍り付いたように竦んで、動かなかった。彼女は必死に思考を巡らせた。悲鳴を聞いてここまで駆けてきたのは、悲鳴を上げている見知らぬ人を助けたいという一心であったが、考えてみればそのとき確かに、彼女は先日確かめた自身の力、変身した際のあの力を頼みにここまで駆けてきたのだ。最早迷っている時間はなかった。彼女は眼を閉じ、強く念じた。
「どうか……再び……あの姿に……」
瞬間、自分の身体が光り輝いたような気がした。恐る恐る眼を開けてみると、再び彼女の身体はあの黒い、白いフリルのついたドレスに包まれ、脚は黒いタイツに包まれ、そして尻にはあの長い尻尾の感覚が、頭には三角形の耳が生えている感覚があった。瞬間、大きな安堵を彼女は感じた。姿が変わるとともに、一気に頭が冴え渡ったような気がした。
「武器を……」
見様見真似で、空中に右腕を伸ばしながらそう亜紀は念じた。念じることで変身ができるのなら、この方法で武器を手にすることができるかもしれないと考えての行動だった。瞬間、右手を包む空気が突然に冷え切ったような感覚と共に、銀色の長剣が、鈍く輝きながら空中に現れ出た。予期していたことではありながら、亜紀は驚愕を隠せなかった。地面に落下しようとするそれを取り落しそうになりながらも、亜紀は何とかその柄を摑んだ。
「遂に正体を現したね」
亜紀の姿を見た相手は、愉快そうに濁った笑い声を上げた。
「やはり猫のモンプエラじゃないか、あたいはフロッグモンプエラだけれどね。しかし変身してくれたからといって、このまま逃がしてはおけないね。あんたはあたいらの敵、そういう認識であるわけだろう? ここは一つ、勝負をしてみようじゃないか。あたいと、殺し合いの勝負をね」
フロッグモンプエラと名乗った少女は槍を構え、距離を測るようにゆっくりと後退した。亜紀はいとも簡単に発せられた「殺し合い」という言葉に強い恐怖を感じながらも、しかし眼は冷静に相手の動きを窺っていた。街燈やビル、ネオンの光が夥しく周りにはあるとはいえ、既に空は闇に包まれており、更に降り続ける雨が視界を悪くしていたが、何故か眼はよく利いた。これもモンプエラというものの能力だろうか、と亜紀は思った。
或る瞬間、フロッグは地を蹴って亜紀に飛び掛かった。亜紀は反射的に剣を振り下ろし、敵は槍を突き出した。三叉の先と剣の刃とがぶつかり合い、火花が散った。亜紀は両腕に力を込めて必死に剣を支えた。敵も負けじと亜紀の剣を押し返そうとしていたが、力が互角であることを悟って意外な表情を浮べた。亜紀は逡巡したのち、素早く横へと身体を引いた。相手は転ぶようにして前へのめり、槍はアスファルトに突き刺さった。その瞬間、何かの焼けるような音と共に湯気が上り、槍の刺さった箇所から染みが広がるようにアスファルトが溶けていった。少女は鼻を鳴らして槍を引き抜いた。溶けたアスファルトがその先から滴った。
「なかなかやるねえ、あんたも」少女は顔を歪めて笑った。
相手が振り下ろしてきた槍の柄が、そのとき、亜紀の剣を手から叩き落した。亜紀ははっとして拾おうと屈みかけたが、敵は素早く武器を握り直し、突き出してきた。亜紀は地面に転がってその攻撃を躱し、槍の尖端は虚しく空を突いた。忌々しげに舌打ちをして、更に接近してきた敵が槍を再度突き出した刹那、亜紀は拾い上げた剣を、地面に転がったままの姿勢で相手に向って突き出した。確かな手応えがあり、相手が呻き声を上げて後ずさるのが見えた。
亜紀は素早く起き上った。フロッグは槍を取り落し、唸りながら傷を受けた右腕を左手で押えた。紅の血が、その傷ついた箇所から流れ出ているのを亜紀は見た。相手は亜紀を睨みつけながら、ゆっくりと後ずさり、そして矢庭に高く跳躍して、歩道橋の欄干を飛び越え、姿を消した。
亜紀は慌てて欄干に駆け寄った。しかし眼下の道路には既にフロッグの姿は見えず、ただ普段通りに自動車が行き交っているだけだった。また取り逃がしてしまった、これでは前回と同じだ、と亜紀は口惜しさを嚙み締めつつ思った。しかしそれよりも、命が助かったという安堵感のほうが遙かに強かった。しばらく動くことができずに佇んでいた後、彼女は変身を解き、振り向いた。雨が冷たく全身を打った。
背後にはどろどろに溶けた死体が、無惨に転がっていた。それが確かに悲鳴を上げ、助けを求めていた人間であったことに思い至り、彼女の心は痛んだ。もう誰も殺させたくはない、私がこの手で守って見せる、亜紀はそう心に強く思った。
* * * * * *
桃香は自転車を全速力で飛ばしていた。あのときと同じ、遠い悲鳴が聞えたのはもう三十分近くも前のことだ。鞄の中にしまっているユーストステッキも、桃色の光をずっと発しているに違いなかった。
放課後の委員会会議に出席していた桃香は、その真最中に、人間の悲鳴を聞いたのだった。モンプエラが出現したのだと瞬時に理解した彼女は、すぐにでも向いたくてならなかったが、そのまま教室を飛び出していくわけにもいかなかった。やっと会議が終ると、挨拶をするのもそこそこに、桃香は学校を飛び出し、そして真直ぐに悲鳴がしたと思われる、藤野駅前へとやってきたのだった。
ユーストステッキは鞄の中に入っている。すぐにでも変身できる状態だった。本当ならすぐにでも私は駆けてこなければならなかったのに、と桃香はそのペダルを漕ぐにつれてカタカタと立てる音を聞きながら思った。人命よりもあの委員会会議が重要であるとは全く考えられない。私は最低の人間なのではないか? あのまま教室を飛び出して救助に向うべきだったのではないか? そんな思いが胸中に渦巻いた。
大通りまでやってきて、桃香は辺りを見廻した。しばらく、彼女は自分の目指すべき場所がわからなかった。しかし、歩道橋の上に異様な人影が立っているのを見つけたとき、彼女ははっとしてそれを凝視した。それは間違いなく、普通の人影ではなかった。それは少女のように見えたが、頭からは明らかに人間のものでない、まるで猫のような大きな三角形の耳が生えていた。そして右手には何か剣のようなものを持ち、そしてじっと眼下を見下ろしている様子だった。それは尋常ならざる光景だった。
桃香は震えながら、しばらくの間その姿を見上げていた。やはりあれ一人ではなかったんだ、他にも怪物がいたんだ、と深い絶望感を感じつつ彼女は思った。気が付いたとき、橋の上の人影は消えていた。桃香は大急ぎで歩道橋を駆け上った。そしてそこに、無惨に溶解した人間の死体を見たのである。
「ああ! ああ……ああ!……こんな……」
通報を受けたという警察が駆けつけてきて、脱力状態の彼女を不幸な目撃者としてその場から立ち去らせるまでの間、桃香はアスファルトの上に崩れ落ちて、ただ涙を流していた。絶対に許してはおかない、こんなことが許されるはずはない、と彼女は思った。あの大きな耳を持ったモンプエラも、私のこの手できっと倒してみせる!
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