第十四話 ビルに貼り付く蛙
放課後に亜紀が早穂と別れ、一人帰路を辿って家へと辿り着くと、家の前で祐樹が、誰かと立話をしている光景に遭遇した。
見れば、自転車のハンドルを握って立っているその相手は、長い茶色の髪を背中に垂らした、すらりと背の高い少女で、真直ぐに切り揃えた前髪が特徴的であった。同級生だろうかと思ったが、よく見れば彼女が着ている制服は、弟の通っている市立中学のものではない。胸に臙脂色のリボンの付いたブレザー……やがて亜紀は、それが私立ウィステリア学院の制服であることに気付いた。
一体ウィステリア学院の女子生徒が、弟とどういう関係にあるのだろうと思いつつ、何となく近寄ることを亜紀が躊躇っている内に、二人の立話も終ったらしかった。少女は自転車に跨ると、笑顔で祐樹に手を振り、夕陽に照らされた道を、見送られながら走り去っていった。
祐樹は門前に佇んだまま、忽ちにして遠ざかっているその後姿を、幸福そうな笑顔で尚も見つめていたが、亜紀が歩み寄ってくることに気付いて、慌てたように表情を引き締めた。その様子の滑稽さに思わず吹き出しそうになりながら、亜紀は尋ねた。
「誰と話してたの?」
「あれは……中学時代の先輩だよ」と、姉から目を逸らして地面を見つめながら祐樹は答えた。まるで表情を、亜紀に見せまいとしているかのようだった。「帰り道、偶然に会ったんだ」
「へえ、陸上部の?」
「そうだよ」
「何ていう名前?」
「御廚天音先輩だよ」
そう口早に答えて祐樹は玄関へ引き返そうとしたが、ふと気付いたように振り返り、猜疑の籠った視線を姉に向けた。
「言っとくけど……本当にただの先輩と後輩ってだけの関係だから」
「え、どういうこと?」亜紀はわざとふざけた口調で答えた。「別の関係って可能性も考えられるっていうこと?」
「いや、だから」祐樹は顔を赤くして反論しようとした様子だったが、亜紀のからかっているような表情に気付くと、溜息をついてそのまま玄関扉の向うへと消えた。亜紀は笑いながら門扉をくぐり、庭に自転車を停めると、その後に続いて家の中へと入った。
時折こんな風にして弟をからかってみるのは、亜紀にとっては中々に楽しいことだった。殊に思春期に差し掛かって以降、祐樹は個人の事柄を詮索されることに非常に敏感になっており、亜紀もその気持はわかるだけに、弟個人のことには余り踏み込まぬようにはしていたのだが、今回のように「姉に見られたくない面」をふと無防備に祐樹が露呈させてしまうとき、子供が虫や動物を指でつつくように、少しからかってみずにはいられなかった。但し祐樹も最近では、熱くなって弁舌を振るっても、姉が一層面白がるだけだと自覚して、このような無言の対応策に切り替えたようであった。
「御廚、天音……御廚、天音……」
珍しい名だと思いながら、亜紀は小声で繰り返してみた。随分と仲良く会話を交していた様子だったが、実際のところ祐樹とその少女がどのような仲であるのかはよくわからなかった。先程は少しからかってもみたが、恋人同士などとは到底思われなかった。そのようなものを弟が持っていたのならば、流石にもう少し前に自分は気付いている筈だ、と亜紀は思った。偶然帰り道で会っただけの先輩、という弟の説明も噓ではなかろうと思われた。
自分にはそんな存在の人はいなかった、とふと亜紀は思った。中学時代に入っていた美術部は途中でやめてしまったし、高校でも部活には未加入であるから、先輩という存在との関わりがそもそも殆どなかった。関わりがあったとしても、同輩の友人すら中々作れなかった自分が、上手くやっていけたかは疑わしい。その点祐樹は、上手いこと学校でも立ち廻っているのだな、と思わずにはいられなかった。
階上の自室へと入ると、亜紀は何とはなしに寂しさに襲われた。先程頭に浮んだ、恋人という言葉が心を傷付けるように思った。蘇りそうになる過去の記憶を振り払って、暮れなずみつつある窓外の景色へと眼を向けた。
そのとき、遠く微かに、人間の悲鳴のようなものが聞えた気がした。
「ん……?」
亜紀は耳を澄ました。しかしそれ以上は何も聞えず、ただ階下からの、台所の水音だけが微かに耳に届いた。気のせいだったのかな、と思ったとき、再び、今度は明瞭に悲鳴が聞えた。それと同時に、その聞えてくる方角が、はっきりと彼女にはわかった。間違いない、人の悲鳴だ、そう思って彼女は咄嗟に駆け出した。
玄関の扉を開け、庭に停められている自転車を引きずり出した。自分でも何故そう判断できるのかがわからなかったが、悲鳴が聞えてきたのは、藤野駅前辺りであることが確信された。無論、普通に考えれば到底人の声などが届いてくる距離ではない。しかし半ば本能に引きずられるようにして、亜紀は自転車を走らせた。何が起っているにせよ、確認せずにはいられない気がした。
上空には厚い雲が垂れこめていたが、駅に近付くにつれ、少しずつ雨粒が亜紀の頭や腕を打ち始めた。傘を家に置いてきたことを悔やむ気持が脳裡を掠めたが、今更戻る気にはなれなかった。
藤野駅前は常の如く、多くの人が行き来していた。自転車を降りて歩きながら、どこかに異状がないかと亜紀は周囲を見廻したが、どこにも変った様子はなかった。やはり何かの勘違いだったのだろうかと思いながら、亜紀は人ごみを避けて、北側の商店街方面まで来た。そのとき、通りに掛かる歩道橋が眼に映った。瞬間、何かの感覚が亜紀に強く訴えかけた。
亜紀は自転車をそこに乗り棄てると、一気にその階段を駆け上った。上りきったところで、何か異臭がすることに気付いた。幅の広い橋の半ばに、愈々強くなってきた雨に打たれながら、何かが転がっている。亜紀は恐る恐るその物体に近寄っていったが、正体を視認して、思わず悲鳴をあげた。
それは半身がどろどろに溶けて崩れた、一人の人間の身体だった。うつ伏せになっているために顔は確認できないが、スーツを着た男性のように見える。その首筋や腕は奇妙な黄味がかった色に染まり、そして腐乱したように多くの箇所が溶けて、骨が露出している部分もあった。背中には何かを突き刺されたような跡があり、そこから血が滲んでいる。亜紀は吐き気をこらえて二三歩後ずさり、荒く息をついた。
一体これはどういうことなのだろう、自分は殺人事件の現場に遭遇してしまったのだろうか、と怯えながら亜紀は思った。ともかく死体が目の前に転がっていることには変りがなかった。すぐに警察に通報しなければと、ポケットに手を入れ、携帯電話を探りながら顔を上げた彼女は、目の前に立つ七階建てのビルの側面に、何かが貼りついているのを認めた。
両手両足をビルの壁面につけて貼りついているのは、人間だった。いや、人間に見えたというべきかもしれない。普通の人間ならば、命綱も何もなしで、あれほど高い壁面に貼りついていることなど不可能だった。亜紀は驚愕に大きく眼を見開いた。まるで手足に、強力な吸盤でも付いているかのようだ、そう彼女が思った瞬間、その何かはひらりと身を翻して飛び、真直ぐに歩道橋の上、亜紀の眼前へと降下してきた。
それは小柄な、少女の姿をしていた。光沢のある緑色のジャンパーを羽織り、下には濃い緑色の、黒と緑の縦縞模様の入ったスカートを履いていた。脚は黒いタイツに包まれている。そして手にはジャンパーと似た材質の手袋のようなものを嵌めていたが、その指先は丸く膨らんで、正に亜紀が今しがた思った通りの、吸盤のようなものが付いているように見えた。
二つ縛りにした髪を揺らしながら顔を上げて、少女は濁った笑い声を立てた。「来ると思ったよ……猫のモンプエラちゃん」
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