第二十一話 水色のパーカーの少女

 頭を打ったために見た一瞬の幻であったのだろうか、と考え続けていた早穂は、あれほど大きく跳ね飛ばされたにも関わらず、最早身体に痛みを殆ど感じないことを怪しむ余裕もなかった。とにかく気持を落着けようと、幾度かベンチに坐ったまま深呼吸をして、しばらくの間、その場にじっと佇んでいた。

 その時、不意に目の前に立った、何者かの気配に気付いた。

 顔を上げると一人の少女が立っていた。黒い髪を頭の左右で結んだ、同い年ぐらいの年齢の少女だった。体の正面に当る部分だけが白になっている水色のパーカーに、黒色の短いスカートを履き、パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、無言で早穂を眺めていた。早穂は訝しく思いながら、まじまじと相手を見つめ返した。

しばらくの間、二人は沈黙のまま対峙していた。奇妙な時間が流れたが、やがて口を開いたのは、少女のほうだった。

「あなた、モンプエラね」

「え?」

 耳馴れぬ言葉に、何かの聞き違いだったのかと思い、早穂は反射的に聞き返した。しかし少女は明瞭な口調で、同じその言葉を繰り返した。

「あなたは、モンプエラよね。間違いない。こんなところで、一体何をしているの? 学生のような服まで着て」

「は……?」

 相手の言っていることの意味が、早穂には全くわからなかった。しかし今起った出来事が出来事だけに、少女が現れたことと、その謎の言葉にも何か意味があるように思われて、無下にその場を立ち去る気にはなれなかった。

「モンプエラ……って、何?」

 そう問い返すと、少女は訝しげに眉を寄せた。

「どういうこと? 記憶喪失にでもなったの?……それともまさか」

 少女は何かに気付いたかのように、眼を微かに見開いた。

「まさかあなたは、最初期の……」相手は小さく声を上げたが、すぐに言葉を切り、押し黙った。そして溜息をついた。

「自分が何であるかを知らないのね、あなたは。かわいそうに。自分が人間だと、当然のように思って生きてきたのね」

「は? 何言ってるの」早穂は何と反応していいのかわからずに、苦い笑いを口許に浮べた。「意味わかんないんだけど……人間でないなら何? モンンプエラって何なわけ?」

 相手は黙って早穂を見返した。その視線には憐れむようなものが籠っているように早穂には思われた。質問に答えるつもりはないのだろうかと思ったとき、少女は静かに口を開いた。

「知らないなら教えてあげるわ。モンプエラは、人間の手によって作られた合成生物よ」

「合成……生物……?」

「そうよ。人間と動物の遺伝子を組合せ、互いの持つ特性を引き出した存在、それがモンプエラ。そしてモンプエラは二つの姿を持つ。人間態と半人態……あなたが先程変身した、あの姿が半人態ね」

「ちょ、ちょっと待って!」早穂は思わず、相手の言葉を遮って叫んだ。「それが本当なら……だ、誰が私を作ったっていうの?」

 少女は振り返り、試すように早穂を一瞥したが、すぐに顔を背けた。

「教えられないわ、それは。あなたは私たちの仲間には成り得ないから」

「仲間……?」早穂は問い掛けた。「あんたもその……モンプエラなの? 他にも大勢いるわけ?」

「そうよ。でも、会わせるわけにはいかない」

 少女はふと思い出したように早穂を振り返ると、真直ぐに歩み寄ってきた。そして驚いて身を引いた早穂の目の前にまで顔を近付けると、囁くように、小声で言った。

「あなた、最初に見つけたのが私で良かったわ。そうでなかったら、面白半分に殺されていたかもしれない……。これまで通りの生活を送りたかったら、二度と変身などはせずに、普通の人間として暮すことね」

「こ、殺され……?」

 早穂は思わず大声を上げたが、そのときにはもう、相手は踵を返していた。そして次の瞬間、少女は地を蹴って高く跳躍した。普通の人間では考えられぬほどの高さにまで軽々と飛び上り、その姿は公園の樹木の向うへと消えた。後を追おうとした早穂は衝撃に打たれて立ち竦み、そして錯乱し切った頭を何とか鎮めようと、空を見上げたままいつまでも佇んでいた。……


 早穂は話し終えた。亜紀は息をつき、「「そういうことだったんだ」と独り言つように言った。「でも、その女の子は一体誰で、そしてそこで何をしていたんだろう? モンプエラを作った存在って、一体……」

「さあ、私もこれ以外のことは全く」と早穂は答えた。「あいつの姿を目にしたのは、あれが最初で最後の機会だったし」

 亜紀は黙り込んだ。恐らく当時の早穂に負けず劣らず、今の彼女の頭脳も激しく混乱し灼熱していた。自分たちが、何者かに作られた存在である可能性など、これまでに一度も考えたことはなかった。それは殆ど恐怖に近い、何とも不気味で心許ない思いを彼女に抱かせ、不安に駆られて全身を撫でさすりながら、助けを求めるように早穂を見上げた。

「信じられない、よね……」

 既に半年も前にその言葉を聞いていた早穂は、流石に落着いた表情を見せていたが、その胸に沈澱した不安が、容易に拭い去られてはいないことは明らかだった。亜紀はうつむいた。確かに普通の状態で聞けば、自分たちが動物と人間の合成生物などということが信じられる筈がなかったが、何しろ自分たちの身に、尋常では考えられぬことが起っている以上、愚にもつかぬ話として斥けるわけにはいかなかった。話をしているときの早穂の表情も、この上もなく真剣なものだったのを亜紀は見ていた。

「早穂の身にはそれから……何か変ったことはあったの?」

「いや、それが何もなかったんだよね。だからあの日の出来事も、何かの思い違いだと思って、無理に頭の隅に押し込めようとしてたんだけど……。やはり、無理だったみたいだね」

 早穂は溜息をついて柵の網を指でなぞり、それから付け加えた。

「でもね、あれから数ヶ月後、一度だけこっそりあの姿……半人態に、変身したことはあったよ。皆が留守のとき、自分の部屋でね。

 あのときは多分、事故の衝撃から身体を守るために、咄嗟に身体のどこかが反応して変身したんだと思うけれど、変身したいと念じれば、すぐにあの姿に変ることができるってことも、そのときに知った。

そして、まあわかるだろうけど、さっきと寸分違わない、あの姿になった。そこで初めて、ああ、自分は普通の人間とは違う存在なんだ、この秘密を抱えて生きていかなきゃいけないんだ、ってね……。まさか、亜紀に話す日が来るなんて思ってなかったな」

 柵の向うの市街を眺める早穂の横顔に、どこか悲痛な影が射しているのを、亜紀は無言で見つめていた。いつも陽気な早穂のそんな姿を見ることは、彼女の心を痛めた。咄嗟に亜紀は言った。

「私たちの他にも、その……モンプエラが、大勢いるってことだよね?」

「そういうことだね。さっきのあれも、亜紀が前に襲われたのも、同じモンプエラでしょ。他にも沢山いるんだよ、私たちと同じ存在が」

 亜紀は激しい不安を感じて黙り込んだが、今頭を擡げてきたのは、あのような危険な存在が街の至るところにいるという可能性への恐怖よりも、更に背筋を寒くさせるような恐ろしい罪悪感だった。彼女は蒼褪め、救いを求めるように早穂を再び見上げた。

「自分たちと同じ存在……を、私、殺してしまったんだよね……」

 亜紀は荒い息をつき、膝の上に置いた拳を強く握り締めた。今更ながらに自分の行ったことの重大さ、恐ろしさを、嚙み締めるように思った。剣で相手の身体を貫いたときのあの感触、驚愕の表情を浮べて爆発四散したあの光景が、まざまざと脳裡に蘇った。

「亜紀」と早穂は冷静に言った。「あれは正当防衛だよ。それに、あいつらは人間ではないんだから」

「それなら、私たちも……」

「同類だよ。人間ではないんだ、私たちはね」

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