第十二話 崇天教徒
六月になった。早くも細々とした雨が続き、生徒たちは教室の蒸し暑さに、不平を零すことが多くなった。高校生ともなると昼休みに校庭で遊ぶなどということも殆どなかったが、それでも陰気な天気に鬱屈するためか、男子生徒たちは教室で騒ぐことが多くなった。学級委員の清須由依が、端正な声を張り上げて時折注意をしたが、一向に改善される様子は見られなかった。
「全くもう……本当に言うことを聞かないんだから……」
溜息をつきつつ席へと戻っていく由依に、「清須さんも大変だね」と奈緒が声を掛けた。「ほっとけばいいよあんなの……。どうせ聞きやしないんだから」
「でも学級委員として、放置するってわけにもいかないじゃない?」
由依は奈緒たちを振り向いて苦笑した。「私だってこんな日は、静かに読書をしていたいものだけれど……。図書館へ行ったほうが良さそうね」
「そのほうがいいんじゃない、私らのお喋りだって邪魔だろうし」
早穂もそう口を挾んだ。
「別にそこまでうるさくはないわよ、早穂さんたち」由依は笑いながら手を振った。「じゃあ、少し行ってこようか……」
「行ってらっしゃい」と、最近はやや他の同級生たちと話すことにも慣れてきた亜紀が手を振ったが、それに由依が返事をする前に、教室の後ろのほうで騒動が巻き起った。
「お前! ふざけんな! 莫迦にすんなよ!」
そう叫びながら、相手の男子の胸倉を摑み揺さぶっているのは、羽田健吾という男子生徒だった。周りの男子生徒たちが集まり、健吾をどうにかして相手と引き離そうとしているのが見える。首を伸ばしてその光景を一瞥した亜紀たちは、不思議そうに顔を見合せた。
激怒している羽田健吾は、クラスの中でも非常におとなしい部類に属する生徒である。殆ど他の生徒と話しているのを見たこともないほどで、友人もほぼいないらしく、教室に於ては亜紀の占めていた位置とも相似していた。前髪を長く伸ばして眼を半ば覆い、校則違反であると指摘されてもすぐに元に戻す変った生徒でもあったが、これほどに大声を上げているのを見るのは驚くべき出来事であった。教室には十数人の生徒がいたが、全員が固唾を呑んで、怒り狂っている彼一人に注目していた。
「ちょっと、どうしたの!」由依が文庫本を机の上に放り出し、駆けていった。女子一人で男子が組み合う中へと突っ込んでいった彼女を心配してか、早穂も立ち上って歩いていったので、奈緒と亜紀もそれに続いた。
ようようにして健吾と相手の男子生徒は引き離され、胸倉を摑まれていた男子は、苦笑を浮べつつ服の乱れを直していた。健吾は荒い息をつきながら、他の男子たちに引かれるまま、相手から数メートルの距離を置いたところへ退いた。その眼は爛々と、尚も相手を睨みつけていた。
「全く、勘弁してくれよ」胸倉を摑まれていた男子が言った。「何ブチ切れてんだよ、これぐらいのことで。気でも狂ったのか?」
「ねえ、一体何があったのよ。一から説明して」
由依がきっぱりとした口調で言い、健吾と相手の男子とを見比べたが、尚も昂奮状態にあるらしい健吾が、説明ができる様子ではないことは誰の目にも明らかだった。やがて相手の男子は、観念したような表情を浮べ、大儀そうに床に落ちているものを顎で指した。
「それだよ」
その場にいた全員が、彼の目の前に落ちているものを見下ろした。それは皺くちゃになって床に転がっている、チラシのような安っぽい紙にしか見えなかった。そのどう見てもごみにしか見えない紙を、由依は拾い上げることに躊躇している様子であったので、亜紀が代りに進み出て、それを拾い上げ、広げてみた。そこには大きく、「崇天教」の文字が書かれていた。
「崇天教……?」
それを見た由依の視線は俄かに険しくなった。「つまりこれが、羽田くんの怒っていた理由というわけね?」
「それ、駅前で配ってて、後藤が貰ってきたチラシなんだよ」と、胸倉を摑まれていた男子が言った。「俺らがネタにして笑ってたら、こいつがやってきて、崇天教を莫迦にするな、とか言ってきた。で、面白がってこれを紙飛行機にして飛ばしたりしてたら、突然摑み掛かってきてこの有様よ」
「つまり」と溜息をついて由依は言った。「羽田くんが嫌がっているにも関わらず、わざとそういう、挑発するような行動をとって面白がっていたというわけね?」
「いや、まあ、そんな深い考えはなかったけどよ……」
「やってしまったことに変りはないでしょう」
由依が言下にそう言い切ると、隣にいた別の男子が口を尖らせた。
「俺たちが悪かったっていうことかよ」
「いいえ、先に手を出したのは羽田くんが悪い。幾ら挑発されたからといっても、暴力に訴えるのは許されないことよ。そしてあなたたちは、相手が嫌がってやめてと言っている行為を、単なる面白半分で続行した。そこはあなたたちに非があるということよ」
由依は明快な口調で、そう言い切った。
男子たちは口々に不平を鳴らしたが、これ以上この件に関わっていても仕方ないという様子で、ぞろぞろと教室を出ていった。後には由依たち数人の女子と健吾のみが取り残されたが、健吾はそれ以上一言も発さず、由依のほうへと目をくれることもせずに、やがてそのまま廊下へと出ていき、姿を消した。教室の空気が、一気に弛緩したように感じられた。
「はあ、一体何だったのかね」
早穂が息をつき、亜紀たちを見廻して苦笑交じりに言った。
「どうしてそんなチラシ一枚で怒ったんだろうね? まさか」
奈緒が亜紀の持っているチラシを一瞥して、何かに気付いたかのようにはっと顔を上げた。亜紀もその可能性は充分に考えていたので、後を引き継ぐように口を開いた。
「……信徒、なのかもしれないね」
「うっそ、こんな新興宗教の? 有り得なくない?」
早穂が亜紀からチラシを受け取り、眉を寄せて紙面へと目を落しながら叫んだ。そちらへと視線を向けた亜紀の眼に、「開祖・白井純洞先生」の文字が、一瞬ちらと映った。
「でも、信教の自由は憲法で保証されていることだからね」
由依が複雑な表情を浮べて言った。「羽田くんが、もしもここの信徒であるとしたら私も驚くけれど……。別に危険な団体であると決ったわけでもないし、止めるわけにはいかないわね」
「いずれにせよ、別に止めるつもりはないけれどね」
そんな早穂の言葉を耳にしながら、亜紀は健吾のあの怒りようをもう一度思い返し、そして崇天教という宗教について、漠然とした想像を巡らせ始めた。
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