第十一話 人々のために、今

 その日、桃香は久々に穏やかな気持で一日を過ごし、帰宅した。絵里のみならず詩織やその他の同級生たちと話して、殺人現場や奇妙な少女との遭遇、変身して戦闘したことなども、最早何かの間違いであったかのように、心の片隅へ押しやって処理することができた気がした。或いは過去の記憶を上書きして塗り替えようとする心理が作用していたのかもしれないが、それは桃香にとっては、どちらでもいいことだった。

 帰ってくると、まだ父や兄は家にはおらず、母親だけが桃香を出迎えた。桃香は早々に二階の自室へと上がると、制服のままベッドに倒れ込んだ。それから枕に顔を埋めて、今日一日の出来事を反芻した。再登校を喜んでくれた友人たちの言葉が脳裡に蘇る。中でも嬉しいのは、夏休みに絵里の家へまた泊りに行けることだった。前に一泊したときにも、いつかまたお泊りをしようという話はしていたが……。

 そのとき突然、遠くから何かの声が聞えた気がした。

 桃香ははっとして枕から顔を上げ、耳を澄ませた。声はもう聞えなかった。気のせいだったのかもしれない、そう思って再び顔を枕に落したにとき、もう一度、今度は明瞭に声が聞えた。それは悲鳴だった。

 桃香は思わず飛び起きた。その瞬間、先日地下道の中で聞いたあの女性の声が部屋中に、というよりは、桃香の頭の中に直接囁きかけているように、響き渡った。

『さあ、あなたが人を助けるときです。ユーストピンク』

「誰!」と桃香は叫んだ。しかし返事はなかった。

 ふと思い至って、桃香はベッドを飛び降り、机の一番下の引出しを開けた。開けた瞬間、まばゆい桃色の光が桃香の眼を射た。

 眼を瞬きながらよく見ると、ユーストステッキと呼ばれていたあのステッキの、宝石の部分が強い光を放っているのだった。桃香は手を伸ばしてステッキを取り出したが、手がステッキに触れた瞬間、マンティスモンプエラと名乗ったあの緑色の少女の姿が脳裡に浮び上り、その気配、場所さえもが、鋭敏になった彼女の神経に伝達されるように明確にわかった。

「中央公園の林……!」

 その瞬間、桃香は自分がすべきことを理解した。しかし尚も彼女は逡巡した。殺人事件のことも緑色の少女のことも、こんなステッキの存在さえも、綺麗に彼女は忘れ去った筈だった。しかし先程聞いた悲鳴を再び思い出したとき、最早桃香は逡巡しなかった。取るものも取りあえずに階段を駆け下り、桃香は玄関で靴を履いた。

「桃香、どこへ行くの!」

 物音を聞きつけた母親が台所から叫んだが、「ちょっと!」と叫んだきり彼女は玄関を飛び出した。扉を閉めながらふと振り返ったとき、下駄箱の上に結局飾られたままの、『マジカル・プリンセス』主人公、苺乃宮愛奈のフィギュアが、玄関の薄闇の中にちらと見えた。

「そうだ、正義のために、戦わなくてはならない時がある……」

 そう心に呟きながら桃香は自転車に飛び乗り、ペダルを漕ぎ始めたが、未だに自分が本当にあの相手に再び立ち向うことができるのか、確信を持つことができなかった。ただ先程の直覚は、稲妻のように問答無用で、彼女の身体を貫いたのだったが……。

 ともかく桃香は、全速力で自転車のペダルを漕いだ。市立中央公園はそれほど遠くはなかったが、もどかしさが普段の距離を、何倍にも伸ばしてみせるようだった。既に夕闇が迫りつつある中、籠に放り込んだユーストステッキの宝石が、桃色の光を放っていた。

 中央公園に辿り着くと、桃香はその広場の入口で自転車を乗り棄てた。敵がいるのがそこではないことを、不思議な先程の感覚が教えていた。彼女はステッキを手に、公園の中央にある、鬱蒼とした林へと向った。そこは北側の広場と南側の広場を隔てている林で、起伏があって丘のようになっているために、中へ入っていくとまるで山道に迷い込んだような気にもさせられる場所だった。

 夕陽は山の向うへと沈もうとしていた。辺りは刻々と闇に包まれ始め、景色は分明でなくなっている。蒼く染められつつある樹々の間の細い道を、息を殺して桃香は歩んでいった。道は緩やかな坂となっており、登り切るとそこが、広場や別の道へと続く十字路になっている筈だった。それが唯一の頼りであるかのように、桃香はユーストステッキを握り締めた。桃色の光はいつの間にか消えている。辺りは静まり返り、遠くの街燈だけが視界を照らしていた。

 そのとき、不意に血腥い臭いが鼻を突いた。桃香は道を逸れて、茂みの中へと足を踏み入れた。背の高い雑草を掻き分けて数メートル奥へ進んだところで、地面に何かが倒れているのが目に入り、反射的に足を止めた。怖々とステッキを掲げると、宝石が今度は桃色でなく、白く強い光を放って辺りを照らした。照らし出されたものを見て、思わず桃香は息を呑んだ。

 それはずたずたに切り刻まれた、人間の身体だった。作業着姿の成人男性だということはわかったが、最早元の体形すらもわからないほどに切断されている。首こそ切断されずに繫がっていたが、左腕は鮮やかに肘で切られて少し離れたところに転がり、胴も腹の辺りで、まるで切り株のように鮮やかに切られ、上半身と下半身とが分断されている。右腕は手首がなく、右脚も膝から下は離れたところに転がっていた。夥しい血が流れ出て地面を染め、その赤黒い流れが、危うく桃香の靴にも届きかけていた。

 桃香は叫び出したいのをこらえながら明かりを消し、二三歩後ずさって再び道へと出た。マンティスモンプエラ、あの化物の仕業に間違いない、と彼女は思った。しかし激しい恐怖を感じながらも、桃香は尚も、自分のなすべきことをはっきりと意識していた。ここへ自分を導いたのは、大いなる何かの意思なのかもしれない、そんなことを漠然と思った。

 そのとき、頭上の樹の枝がざわざわと揺れた。はっとして見上げた桃香の眼に、街燈の光に照らし出された、緑色の服装の少女の姿が映った。背中の翅を伸ばし、両腕の鎌から血を滴らせて、マンティスモンプエラは彼女を見下ろしていた。

「再び会ったな。この間の人間よ」マンティスは満足そうに笑っていた。「今度こそはお前を、そこに倒れているのと同じように切り刻んでやろう」

「あなたは……何故こんなことを……」桃香はステッキを構えた。「どうして人間の命を……そんなに簡単に奪えるの……」

「理由などない」相手は鼻で笑った。「ただ自らの快楽のためのみだ」

 その答えを聞いた瞬間、それまでは恐れしかなかった桃香の中に、突如として怒りの炎が燃え上がった。脳裡を三体の無惨な死体の映像が行き過ぎ、決して相手を許さずにはおかないという決意が生れた。桃香はユーストステッキを高く掲げ、今度は自分の意思ではっきりと、声高く叫んだ。

「博愛の天使、ユーストピンク! 力よ来れ!」

 叫ぶと同時に身体が桃色の強い光を放ち、忽ちにして桃香は、胸元に大きなリボンを付け、フリルに飾られたあのドレスへと変身していた。髪も染め上げられたような、あの鮮やかな桃色へと変化し、同時に全身に、力が満ち溢れるのが感じられた。

 叫び声を上げながら飛び降りてきた相手の鎌の刃を、一瞬で長く伸びたユーストステッキで桃香は薙ぎ払った。マンティスは道に叩きつけられてやや離れた場所へと転がったが、忽ち起き上ると、前方へと両腕を差し出した。

 すると長い柄のついた鎌と大きな盾とが、闇の中に銀色の光を放ちながら、空中に現れ出た。鎌はブロンズのような緑色の光沢を放ち、腕のそれよりも鋭そうな、巨大な刃が輝いた。盾には赤、白、黒の三色で、まるで大きな目玉のような模様が描かれていた。桃香はいささか怯んだが、ユーストステッキを構えて体勢を立て直し、自分に言い聞かせるように呟いた。

「負けない……」

 新たな武器を手にしたマンティスモンプエラは、桃香に飛び掛かると、長い柄の鎌を振り下ろした。桃香は咄嗟にステッキで受け止め、押し返した。そして相手の身体をステッキで打ち据えようとしたが、それは盾で防がれた。再び振り下ろされてきた鎌を咄嗟にかわした桃香は、盾で激しく突かれ、数メートル先に吹き飛んで地面に転がった。起き上ろうとしたとき、再び、あの天からの声が、朗々と響き渡った。

『ユーストソードを使いなさい』

 目の前が白く輝いたかと思うと、一本の長剣が、光り輝きながら姿を現した。桃香が茫然として見ている内に、それは地面へと落下したが、拾い上げてみると、柄にはステッキと同様の、ハート型のルビーのような石が埋め込まれ、桃色に発光していた。

深く考える間もなく、桃香はその剣を構え、腰のリボンの間に差し込んだステッキと持ち替えた。

 気合の叫びを上げて地を蹴り、飛び掛かっていった桃香の剣を、相手は盾で防ごうとした。しかし桃色の光を放つその剣は、目玉の描かれたその厚い盾を、いとも簡単に切り裂いた。マンティスは驚愕の叫び声をあげ、両断された盾を棄てた。そして鎌の柄を両手で握り直し、桃香へと向って振り下ろそうとした。

 しかし桃香は素早くその刃を躱すと、瞬時に身体の向きを変えて、相手へ蹴りを喰らわせた。マンティスは僅かによろめき、そこに隙が生れた。桃香は全身の力を込めて、その身体へと、剣を深々と突き刺した。確かな手応えが、柄を通じて桃香の手へと伝わってきた。剣は相手の身体を貫き、その尖端は背中から飛び出した。

 マンティスは一瞬間、自分の身に何が起ったのか、理解できないというように動きを止めた。しかしたちどころにしてその顔は苦痛に歪み、鎌は力を喪った手から離れて、重い音と共に地面へと落ちた。

「莫迦な……そんな、筈が……」

 そう言葉を発した瞬間、マンティスの身体は爆発を起した。炎と四散する相手の肉片とが、剣の柄を握ったままでいた桃香を襲った。

桃香は瞬時に飛び退いて地面へと転がり、何とか難を逃れたが、起き上ってみると、既にあの化物の身体は粉々に吹き飛んで、路上に、炎の残りや、焼け焦げた鎌や盾の残骸が残されているだけだった。桃香は焦げ臭い空気の中、しばらくの間、茫然と佇んでいた。

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