第六話 単調な日々の終り

 毎日は単調で、そして、物憂い。

 折々に緊張を感じることなどは勿論あるが、それは長く持続することなく、忽ちに流れ去ってゆく。毎日それなりのことをこなしていけばよい生活が、もう四年余りも続いていた。最後に長い期間の緊張を経験したのは、中学受験期であったように桃香には思われた。兄も通っていたこのウィステリア学院に娘も必ず入れなければと、父母は神経を尖らせ、桃香も期待に応えるべく、毎日のように机に齧り付いていた。

 しかし受験が無事に終ってのちは、再び小学校時代と変らない、安穏とした学生生活が幕を開けた。異質な乱暴者がいない分、小学校よりも更に、その環境は世間離れしているとも言えた。ウィステリア学院に通う全ての生徒が桃香と同じような生活を送っているというわけではないにせよ、似た感じの友人たちに囲まれて、桃香の学校生活には、いかなる波瀾も存在しなかった。

 時折、これが世間で言う、所謂幸福というものなのかもしれない、と彼女は思う。悩み事も、将来に対しての不安もない。成績も好調であったし、大学になら推薦の口も多数ある。父は時折、自身が役員を務めている会社になら、縁故で楽に入れるだろうと言っていたし、更にお前は女子なのだから、勤めると言っても結婚するまで、世間を多少知るためぐらいに思ってやればよいのだ、とも口にしていた。それに全く、桃香も不満はなかった。

 自分はこの調子で一生を終えるのだろう、という予感が桃香にはある。何の波瀾もなく、穏やかで幸福な一生。思春期に差し掛かり、そんな人生に対しての疑問が、頭を擡げることがないわけでもなかった。どこかでもう一つの、起伏と刺戟に満ちた第二の人生が、自分を待っているという気がしなくもない。しかしそれは、白馬の王子様を夢見るような、空想上のことに過ぎないのだろうということには、桃香も気付いてはいる。実現させることができたとしても、それはきっと幸福からは程遠い、荒んだ生活に身を投じる愚かな行為でしかないのであろうとも……。

 下校時に自宅へと自転車を走らせながら、よく桃香はそんなことを思った。朝と同様に多くの、他校の生徒たちと行き違う。彼らにとって人生とはどんなものなのだろう、私のそれとどれほどに異なるのだろう。ウィステリア学院外の同年代を目にする数少ない機会が、この登下校の時間であったが、何か不思議な偶然が生じて、何かが自分をこの温室の中から連れ出してくれはしないだろうか、などとも思った。

 途中、坂を下りて角を曲ったところに、「崇天教中野支部」と看板を掲げた白い建物があった。一応数十年前からあるらしいが、胡散臭いことには変りのない、怪しげな新興宗教の建物である。道路に面した一階の窓硝子には、内側から「第二十五回 白井純洞先生大講演会」と書かれた大きなポスターが貼られている。桃香はそれをちらと一瞥して、そのまま脇を通り過ぎた。彼女を日常から連れ出してくれるのは、少なくともこんなものではない筈であったから。

 やがて彼女は、雑木林に沿った道へ差し掛かった。林の反対側は金属柵に囲まれた高架道路の敷地になっており、余り人気のない場所であった。まだ日が高いせいもあり、桃香は特に不気味さを感じることもなく自転車を走らせていた。

 ふと桃香は前方に、何かが転がっているのを見て取った。道路の真中辺りにある黒いそれは、一見、ただの布かビニールの塊のようにも見えた。しかし近付いていった桃香は、それが人間であることを悟って、思わず小さな叫び声を発した。しかも一人ではなく、二人の人間が互いに近い距離に、同じうつ伏せで倒れていたのである。

「え……?」

 自転車から降りて駆け寄っていった桃香は、どちらも中年男性であるらしいその二人の身体の諸所に、鋭い鎌で切られたような無惨な傷があるのと、それによって生じたらしき血が、アスファルトの上に流れ出て、早くも赤黒く固まり始めているのを見て取った。傷付けられているというよりも寧ろ、その二人の身体は切り刻まれているといったほうが相応しく、そして最早、助かるべくもなかった。

 桃香は激しく混乱し、恐怖に駆られて辺りを見廻した。当然のことながら彼女は、こんな現場に遭遇したことは一度もなく、そしてこんな無惨なものを目にすることなども、記憶にある限りでは殆どなかった。それだけに桃香が受けた衝撃は強烈であり、激しくうろたえたが、ひとまず救急隊と警察を呼ぼうと、震える手で携帯電話を取り出した。

 しかしそれを鞄から引っ張り出し、電源を入れるまでに、じれったいほどの時間が掛かった。ウィステリア学院では携帯電話の持込を認める代り、校内では電源を切り、鞄の中にしまうことを厳しく教えていた。桃香はそれを遵守していたのであるが、この場でそれが裏目に出たのである。

 ようやく待受け画面が表示されたと思ったとき、突然、彼女の上空を何かの影が行き過ぎた。鳥かと思いながらも何か異様なものを感じて、顔を上げた桃香は、そこに信じられないものを見出して立ち竦んだ。背に大きな翅を生やした少女が、十数メートルほど上空に滞空して、彼女を見下ろしていたのである。桃香は自分の目を疑ったが、それは幻ではなかった。

 緑色の少女――マンティスモンプエラは、ゆっくりと彼女の目の前に降り立った。その触角、緑色の異様な風采を、桃香は茫然と眺めたが、相手の両腕に付いた鎌のようなものが血に赤く染まっているのを見て、俄かに強い恐怖に駆られた。

「だ……誰か! 助けて!」

 叫びながら桃香は、次の瞬間には駆け出していた。自転車に駆け寄り、大急ぎで飛び乗ると、これまでにないほどの速度で、必死に漕いだ。とにかく少しでも遠いところへ、そう思いながら無我夢中で雑木林の一劃を抜け、高架下をくぐり、民家の脇を通り抜け、ひたすらに走った。背後からは何の気配も音も聞えてはこなかったが、いずれにせよ後方を確認するほどの余裕は彼女にはなかった。

 やがて桃香は、川に掛かる橋の下をくぐる、地下道の入口に辿り着いた。その辺りまで行き着くと、もう彼女の体力も限界に達しようとしていた。自転車を降りると、地下道の内部に連なるコンクリートの柱の陰に、桃香は駆け込んで坐り込んだ。必死で荒い息を整えながら、彼女は自分の来た方角を見透かした。道路はしんとして人影もなく、噓のように和やかな日光に照らされていた。

 そのとき、不意に辺りが静まり返った気がした。

 元々辺りには人気もなく、自動車も走っていなかったために、音は特に聞えなかったのだが、無意識に耳に入っていた環境音すらもその瞬間、ラジオの電源を急に切ったように、一瞬の内に聞えなくなった気がした。しかしそう思われたのは錯覚のようなもので、確かに風の音も、地下道のすぐ外の茂みの風に揺れる音も、桃香の耳には確かに届いていた。しかしそれは先ほどとは全く異なる響きを以て聞えるのだった。まるで辺りの空気が俄かに異様なほど冴え返ったような、それは奇妙な感覚だった。

「これは……?」

 桃香が不吉な予感に怯えた呟きを漏らした瞬間、突如として、首筋が軽く痺れるような感覚と共に、聞き覚えのない女性の声が辺りに響き渡った。

『戦いなさい。変身して、敵に立ち向いなさい』

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