第七話 戦いなさい、天使よ

 彼女は驚いて辺りを見廻したが、誰の姿もそこにはなかった。どこから聞えてくるのかわからないその声は、再び地下道の内部に響いた。

『あなたは、戦士の使命を与えられた者。ユーストガールの一人となって、あのマンティスモンプエラと戦うのです。亡くなった人間のためにも』

「誰……一体何のことなの……」

 そう桃香が叫んだ瞬間、上空からまばゆく光り輝くものが落下してきて、彼女の傍らの地面に転がった。反射的に上を見上げたが、そこにはただ、暗い地下道の天井があるだけだった。地面に落ちたものに目を移すと、それは警棒ほどの大きさと長さの、白いステッキのような物体だった。桃香は恐る恐る手を伸ばして、それを手に取った。

 そのステッキは、真白な本体の周りに、桃色の流線形の模様が描かれており、両端が膨らんだ、それ自体も緩やかな曲線を描くデザインとなっていた。その膨らんだ両端に近い側面には、ハートの形をした赤い宝石のようなものが埋め込まれている。まるでルビーのよう、そんなことを桃香は思った。まるで女児向けの玩具のような、冗談のような代物だったが、そのまま打ち棄てておく気にはなれなかった。声が再び響いた。

『あなたは博愛の天使、ユーストピンク。そのユーストステッキを使い、変身するのです。それはあなたの使命……』

「どういうこと……使命って、一体何?」

 桃香は叫び返したが、そのとき、背後に不気味な気配を感じた。振り返ると地下道の入り口に、逆光を背景にして、あの緑色の少女が立っていた。桃香は全身が凍りつくかのような戦慄を覚えた。必死で後ずさりをしたが、その分だけ相手は、切れ長の眼を細めて前進した。桃香は震える声で、叫ぶように言った。

「これが、マンティス……モンプエラ……?」

 その言葉を聞いて、相手は不審そうに眉を寄せた。首を微かに傾げたのが、逆光の中でもわかった。しかし、歩を止めようとはしなかった。

「昨日といい今日といい、妙な連中ばかりに遭遇することだ」

 低い声で呟くや否や、マンティスは両腕の鎌の刃を、大きく振り上げた。その血に染まった鎌が再び目に入った瞬間、恐怖に駆られた桃香は殆ど無意識に、手にしていた、ユーストステッキなる名前らしい物を振り上げ、満身の力を込めて叫んでいた。

「博愛の天使、ユーストピンク! 力よ来れ!」

 その言葉が何を意味するのか、桃香自身には全くわからなかった。ステッキを高く掲げたのも、その言葉を叫んだのも、全く自分の意思とは無関係に、まるで誰かに操られたかのように実行されたのである。

 次の瞬間、桃香の身体は、強く光り輝いた。周囲は一瞬にして桃色の光に包まれ、マンティスモンプエラが咄嗟に顔を背けたのが見えた。桃香は驚きに打たれながらも、必死で自分の身に、何が起きているのかを見定めようとした。ユーストステッキの両端に埋め込まれた宝石のようなものが、桃色の強い光を発しているのが見えた。しかしそれと同時に、確かに自分の身体も桃色に光り輝き、着ている制服の生地さえが、判別できないほどになっていた。

 やがて光が消え去ったとき、桃香は咄嗟に自分の身体を見下ろし、その服装が制服ではなく、全然見覚えのないものに変化していることに気付いて驚愕した。

 それはまるでドレスのような服だった。膝までの白いスカートに桃色のフリルが付き、胸にも大きな桃色のリボンがついた、見たこともない不思議な服装であった。しかも更に驚くべきことに、ツインテールにしている桃香の髪が、鮮やかな桃色に染まっていたのである。

 桃香は激しく狼狽したが、目の前に立っている敵が体勢を立て直したものを見て、そちらへと素早く視線を向けた。相手も桃香のこの変化は予想だにしていなかったらしく、その鋭い切れ長の眼は、大きく見開かれて驚きを示していた。

「何者だ、お前は……モンプエラ、ではなさそうだが……」

 そう独り言つように相手は言ったが、やがて右腕の鎌を構え直すと、意を決したらしい口調で言い放った。

「まあいい、お前も所詮は人間だ。この刃に刻まれて死ね」

 次の瞬間、鎌を振り上げて相手は飛び掛かってきた。桃香は瞬時に横へ飛び退いてこれを躱したが、これほどに俊敏であった相手の動きを、自分が躱せたことに同時に驚いた。

 マンティスは唸りながら次々と鎌を繰り出したが、桃香は飛び退き、跳躍し、これを全て回避した。そして或る瞬間、通常では考えられぬほど長い距離を後方へと飛び退いたとき、手に握ったままでいたユーストステッキが、さながら如意棒のように、長く左右に伸びた。そのときマンティスが、背の翅を広げて突進してきたが、桃香は反射的に迫りくる刃をステッキで受け止め、そして押し返した。マンティスは空中で平衡を失い、そのまま地面へと転がった。

「何者だ……お前は……」

 ようようのことでマンティスは起き上ると、警戒心を露わにして後ずさりした。そして俄かに背部の翅を広げ、空中へと上昇して、地下道のを外へと飛び去ってしまった。桃香はその後を追って地下道を飛び出し、空を見上げたが、相手の姿は既に遠く、夕空の中へ消えていこうとしているところだった。

 桃香は茫然として、自分の身体を見下ろした。瞬間、身体が再び桃色の光を放ち、奇妙なドレスから元の制服に戻った。髪の色も黒色に返り、手に持ったステッキも、元の短い姿に返っていた。彼女には一体何が起ったのか、全く理解できなかった。ただ顔を上げ、既に敵は完全に見えなくなった空を、眺めていることしかできなかった。

 やがて桃香はステッキを鞄へとひとまず突っ込み、自転車で二人の男性が倒れていた現場へと戻った。しかしそこには既に大勢の警察官が駆け付けており、大きな騒ぎとなっていた。桃香は屯ろしている野次馬たちの後ろから懸命に現場を見ようとしたが、貼られた警戒線と、青いビニールシートで覆われた二体の死体の姿を、やっと認めることができただけだった。

桃香は混乱した頭を持て余しながら、ゆっくりと自転車を押して家へと帰った。一体今起った出来事が何であったのか、そもそも現実の出来事であったのか、一度冷静に返った頭で、考え判断する時間が必要な筈だった。

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