第五話 ゴシック・ロリータと猫耳
その日、帰宅した亜紀は、台所で立ち働いている母親や、居間で寝転んでテレビを観ている祐樹の姿を目にして、ようやく現実へと戻ってきたような、深い安堵を感じた。そのまましばらく、平常の自分を取り返そうとするかのように、彼女は居間と台所の境目に立ち尽していたが、母に呼び掛けられてようやく我に返った。
「どうしたの亜紀、早く着替えてきなさい」母は鍋から眼を離して振り向いたが、ふと訝しげに眉を寄せ、亜紀の元へと歩み寄ってきた。亜紀は思わず戦慄した。先程自分の頭と腰に出現した、あの奇妙な尾と耳が、再び現れて母の目に留ったのかもしれないと思ったのである。
しかしそうではなかった。母は寄ってくると、屈み込んで亜紀のスカートを払いながら、「あなた、制服が土で汚れてるじゃない。どうしたの?」と尋ねたのである。亜紀は安堵すると同時に、まだ畑の土が、制服に残っていたことに気が付いて、ぎこちなく弁解した。
「帰り、ちょっと自転車で転んじゃって……」
「本当? 大丈夫だった?」
母は亜紀に背を向けさせ、念入りにはたいた。
「うん、大したことなかった。怪我はしてないよ」
亜紀はそう答えて階下へ上り、私服へと着替えた。自室の隅には、母が昔使っていた鏡台がある。普段は殆ど使うこともないそれの布を取って、亜紀は鏡の中を覗き込んだ。鏡には私服を身にまとった、長い黒髪の少女が映っている。見慣れた自分の姿であり、何も普段と異なる点はなかった。
鏡像の自身を眺めながら、亜紀は自身の身体が変化したときの、先程の状況を思い起そうとした。あのとき、マンティスと名乗ったあの少女が鎌を振り上げ、彼女は逃げることもできず尻餅をついて、絶体絶命の危機に陥ったのだった。そして眼を瞑り、死を覚悟したとき……そのとき、確かに身体に変化が起った筈なのだった。
死を覚悟したから、身体に変化が起きたのだろうか。そして普段のこの姿に戻ったのは、マンティスが飛び去り、死の危機が去ったことを認識したためだったとすれば……。猫の耳と尾の生えた、あの第二の自分の姿は、敵から身を守るためのものであったのかもしれない。丁度、天敵に襲われた蝶の幼虫が、悪臭を発する角を出して威嚇をするように。だからこそ普段では考えられぬほどの速力で疾走したり、一メートルほども跳躍したりすることができたのだろうか、と亜紀は考えた。
この場でもう一度、あの姿に変身することができるだろうか、と思った亜紀は、すぐにでも試してみたい衝動に駆られたが、そのとき階下から夕食のできたことを知らせる母の声が聞えてきて、断念をした。落着かぬ気持で夕食を早々に終えると、部屋の戸を内側から施錠し、鏡台へと向き直って正座をした。
しばらくの間、亜紀は鏡像と対峙していた。このまま元に戻れなくなったらどうしようか、という不安が、実行を彼女に躊躇わせた。恐ろしさと好奇心とが、亜紀の心を二分していた。しかし再度変身しなければならぬ状況に陥ったとした場合――無論、そんな状況は避けたかったが――慌てることがないように、今ここで自由に姿を変えられるのか、試してみる意義は大きい筈だった。
或る瞬間に、亜紀は意を決して、今度は眼を瞑らず、正面の鏡を見据えたまま、姿よ変れ、と念じた。言葉としてそう念じたわけではなかったが、ともかく先程のあの姿を、強く心の中に蘇らせたのである。
次の瞬間、亜紀の視界は白い光に包まれた。驚いて腰を浮しかけた彼女は、次の瞬間、自分の身体が白く輝いているのだ、ということを認識した。しかしその輝きは忽ちの内に搔き消えて、鏡には猫の耳と尾を持った、ゴシック・ロリータ姿の少女が、驚いた表情を浮べて映っていた。
「噓……」
亜紀は茫然として鏡に近寄り、変化した自分の姿を、仔細に観察した。決して夢や幻などではなかった。先程と寸分違わぬ、あの姿である。但し靴を履いていないためか、脚に身に着けているのは黒いタイツのみで、あのヒールの靴はなかった。
恐る恐る、彼女は頭から生えている、黒い猫の耳に手を触れた。忽ちにして、耳に息を吹き掛けられたかのようなくすぐったさが感じられ、耳が細かく震えるのと共に、亜紀は手を引っ込めた。人間としての普段の耳は、髪に隠れながらも、確かに変らず存在していた。
続いて亜紀は、尻尾のほうを調べてみることにした。滑らかな毛並の、黒く細長い猫の尾である。腰の辺りに軽く力を入れると、それはいとも簡単に動かすことができた。しばらくの間、軽い音を立てながら、亜紀はその尾で床を規則的に叩いていたが、やがて我に返り、続いて服のほうを調べてみることにした。
それは黒を基調とした、実に豪華なドレスだった。一体只のセーラー服やら私服やらが、どのようにしてこんなものへと変化するのか、到底理解し難い。至るところにフリルが付いており、こんな状況で現れるものでさえなければ、可愛いと見入ってしまうような代物だった。しかしこんな服を身に着けているのは、西洋人形ぐらいしか、実際に彼女は見たことがなかった。
どこで製造されたものなのかを示すタグなどがありはしないだろうかと、スカートをめくってみたりしたが、見当らない。ひどく脱ぎづらそうだが一度脱いでみようか、と思った矢先、部屋の前で祐樹の声がした。
「お姉ちゃん、入っていい?」
「え?」と亜紀は焦燥に駆られて叫んだ。「どうしたの?」
「辞書を使いたいんだけど」
姉弟が使う国語辞典は、亜紀の部屋の本棚にあった。亜紀は慌てて立ち上ろうとし、足がもつれて床に尻餅をついた。大きな音が響き、祐樹が部屋の戸を開けようとする音がしたが、施錠されているので当然ながら開くことはなかった。
「あれ、鍵掛かってる?」
「ちょっと待って」亜紀は必死の形相で鏡台を振り向き、元へ戻れと強く念じた。すると再び全身が白い光に包まれ、次の瞬間には亜紀は元の姿となって、焦った表情で鏡に映っていた。
亜紀はよろめくようにして立ち上り、戸を開錠して開けた。祐樹は訝しげに姉の顔を見上げ、部屋へと立ち入ったが、珍しく鏡台の布がめくられているほかは、特に変ったものはなかった。祐樹は本棚から辞書を引き抜くと、そのまま自室へと戻っていった。亜紀は大きく息をついた。
ともかくこれで、自由にこの第二の姿に変身したり、元の姿に戻ったりできることは確認できたわけであった。しかし再び、この姿に変身せざるを得ない状況に追いつめられることがあるだろうかと、亜紀は再び不安な気持になる自分を意識するのだった。
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