第四話 ウィステリア高校の生徒会長
ウィステリア学院の生徒は電車やバスで通学する者が多いが、桃香のように家が近く、自転車や徒歩で通う者も皆無ではなかった。途中では県立高校や市立高校の生徒と思しき生徒たちと、毎度の如くすれ違う。女子生徒の制服は、藤野市内ではセーラー服が多いのだが、ウィステリアはベージュ色に臙脂色のリボンのブレザーである。現代的なデザインのこの制服を羨望する、他校の生徒たちも多いらしい。
やがて煉瓦塀が前方に見えてき、唐草模様の開かれた門扉の間を通り抜けると、そこは既に校地である。西洋風のデザインをした校舎の、正面玄関の上に聳える尖塔が、登校してくる生徒たちを見下ろしていた。プラタナスの樹々の脇を通り抜けて、桃香は駐輪場へと自転車を停めた。
鞄を掲げて二年生の昇降口へと入っていくと、背後から肩を叩かれた。振り向くと同じクラスの、高橋絵里と小川詩織が立っていた。二人とも桃香とは、中学校以来の仲である。詩織が元気な声で笑った。
「おっはよう、桃香!」
「おはよう」と桃香も笑顔で答えた。「二人とも、今日は早いね」
「そうそう。私さあ、昨日の『溺れるほどの愛』観てから、昂奮が止らなくってさあ」絵里が口早に言った。「早く二人に会って、感想を共有してくって……桃香、観た? 神部翔くんが出てるドラマ。昨日が初回だったんだけど」
「ごめん」と桃香は肩を竦めた。「私、観てないわ」
「マジで? 絵里も観てないっていうんだよねえ、本当がっかり」
詩織は大きく肩を落してみせ、傍らにいた絵里が、「私、最近は神部くんより大田くんだから」と笑った。詩織は大きく眼を見開き、桃香もそれにつられて思わず笑った。
「とにかく、絶対観たほうがいいってあれは」詩織は二人と共に廊下を歩きながら、熱心な口調で言った。「神部くんが本当最高だから。他にも俳優陣が豪華なのよね、島岡百合子でしょ、松池友悟でしょ……」
「詩織って本当にドラマが好きだよね」と桃香は言った。「前にやってた銀行マンのドラマも、私は途中で観るのやめちゃったけど……」
そのとき誰かの肩が自身の肩とぶつかり、前方の詩織をしか見ていなかった桃香は、軽い驚きと共に振り向いた。場所は階段を上り切ったところで、角を曲って姿を現した相手に、彼女は衝突してしまったのであった。
瞬間、桃香は、自分よりもやや高いところにある、冷たい瞳に直面した。それは何か恐ろしい軽侮の色を湛えて、彼女を見下ろしていた。一瞬間のことではあったが、沈黙が辺りに満ちたように桃香は感じた。瞬時に身体を引き離し、「すみません」と謝った。
桃香が肩をぶつけたのは、一人の長身の女子生徒であった。小脇に束ねた書類のようなものを抱え、数人の女子生徒を後へ従えている。相手に桃香は見覚えがあるように感じたが、即座には思い出せなかった。長身の女子生徒はそれ以上桃香に関心を払う様子はなく、無言のまま再び前へ向き直ると、取巻きと共に階段を下り、姿を消した。
「あれは……」
「生徒会長だよ、桃香。水野碧衣先輩」
絵里が逸早くそう教えた。「危なかったじゃん桃香……あの生徒会長にぶつかるなんてさ。何事もなくて良かった」
「あの生徒会長、生徒たちから恐れられてるもんね」と詩織が笑いながら口を挾んだ。「一部では、女王様、なんて呼ばれてるぐらいらしいし」
生徒会長の碧衣のことは、桃香も勿論知っていた。体育館の朝礼などで式を取り仕切るのは、決っているもこの生徒会長である。力強い口調と、凜とした雰囲気が強く印象に残る人物である。生徒たちから恐れられているというのは半ば冗談ではあったが、生徒の間で通用している認識であった。しかし実際、直接に彼女に関わる生徒会役員たちに対してはかなり厳格に接するらしく、そこでは本当に恐れられているとの噂が、「女王様」の綽名を一層真実のものらしくさせてもいた。
「桃香って何かぼうっとしてるところがあるからね、気を付けないと」と絵里は笑った。「ほんわかしてるというかさ……まあ、そこが桃香のいいところでもあるんだけど」
「そうそう」と絵里が同調し、桃香は苦笑した。確かにそれは、自分でも常々自覚していることだった。桃香にとっての現実は、幸福なものである代りに、これでよいのだろうかと思うほど重圧のない、浮遊しているような感覚のものだった。世間知らずだとか箱入り娘だとか、そういった世間の言葉は、自分に当て嵌まるものでもあるのかもしれないと考えることも偶にある。ともかくあの凜とした生徒会長などとは、自分は正反対の人間だな、と彼女は思うのだった。
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