第三話 佐々井桃香
亜紀は反射的に右腕を伸ばし、相手の手首を捉えた。続いて繰り出されてきたもう一方の腕も、同じように捉えた。マンティスはこれを振りほどこうとする様子でもがいたが、力は拮抗しており、そのままの膠着状態が僅かな間続いた。
やがて亜紀は渾身の力を込めて相手を投げ飛ばし、起き上って、傍らに倒れた相手の上へ馬乗りになった。これまでに他人に暴力を振るった経験は皆無に等しかったが、無我夢中で拳を振り上げ、殴りつけた。しかし相手の皮膚は人間とは思えない硬さを持っており、しかもその瞬間に相手は亜紀を跳ねのけて、怒りに満ちた唸り声を立てながら、激しい殴打を浴びせた。
亜紀は組み伏せられるようにして殴打を浴びたが、すぐさま相手の背を蹴り上げた。そして相手が怯んだ隙に体勢を逆転させ、組み伏せようとしたが、そのときマンティスの背の翅が、再び徐ろに開いた。そして小さな風を起しながら羽ばたき、忽ちにして少女の身体は、空中へと浮上し始めた。
亜紀は夢中で相手の脚にしがみつこうとしたが、相手が自分から離れていく以上、もう追う必要はないことを悟って、立ち止った。見上げれば、早くも空高く飛翔したマンティスの表情は、既に暗み始めた空を背景にして、窺うことはできなかった。それでもしばらくの間、彼女は苛立たしげに上空を旋回していたが、やがて向きを変えて飛び去り、雑木林の方面へと姿を消した。
亜紀は茫然として、しばらく空を見上げたまま、その場から動かなかった。ようやく我に返って見てみると、土に汚れてはいるものの、既に彼女の服装は、元の制服へと戻っていた。すぐさま腰と頭に手を伸ばして確認したが、あの猫のような尾と耳も、跡形もなく消え去っていた。亜紀は念を入れて、しばらくの間、それがあった筈の場所を撫でさすっていた。既に辺りには、夜の帷が下り始めていた。
ふと振り向くと、自転車は道の真中に、倒れたままでいた。鞄は籠から転げ出て、放り出されたようにその傍らに転がっていた。今の出来事が夢か幻であったのか、それとも本当の出来事だったのか、全く理解ができなかったが、とにかく一刻も早くここを立ち去ったほうがいい、と亜紀は思った。彼女は鞄を拾い上げると、不安に駆られつつも、足早にペダルを漕いでその場を後にした。
* * * * * *
私立ウィステリア学院高校へ佐々井桃香が通うようになってから、既に二年目である。とはいえウィステリア学院は中学校をも併設していて、彼女は中学受験をしてここへ入ったから、同じ校地への通学は、既に五年目へ入ったわけであった。
この私立学校は特にそこまでの名門というわけではないにせよ、充実した教育環境は保証されていたし、校内も公立中学などのように荒れてなどはいなかったから、桃香の両親も彼女により良い環境をと、殊にこの学校を選んで受験を勧めたわけであった。
周囲とそんなものを比較する機会など殆どなかったから、桃香は自分の家が世間的に言って、どれほどの階級に属するのかはよく知らなかったが、長ずるにつれ、それなりに裕福なほうに属するらしいということは理解するようになっていた。この学校に来るのも、流石に都心の私学ほどではないが、富裕層の子息がそれなりに多いらしいという話を、以前に聞いたことがあった。
その日、桃香が登校のために玄関で靴を履いていると、ふと下駄箱の上に置かれている、一体のフィギュアが目に入った。全く見覚えのない合成樹脂製のフィギュアで、魔法の杖らしきものを笑顔で振っている、赤色の髪の美少女の姿をしている。靴を履き終えた桃香は、突如として出現したそのフィギュアを、一体何事かと思いながらしばし見つめていたが、そのとき兄の康輔が玄関を通り掛かったので、「お兄ちゃん、これ何?」と尋ねた。
尋ねずとも、康輔がこのフィギュアの持主であることは明白である。二十四になる、今は横浜の商事会社に勤めているこの兄は大のアニメ愛好家であった。深夜アニメのみならず、金曜の午後七時から放送される、魔法少女何とかかんとかという、女児向けアニメをも熱心に視聴している。桃香も詳しくはなかったが、確かこのフィギュアの美少女も、その主人公であったように思われた。
「それは『魔法少女マジカル・プリンセス』の苺乃宮愛奈だよ、桃香」康輔は黒縁眼鏡に指を掛けながら、嬉しそうに笑った。「マジカル・プリンセスに変身する第一の少女、中学三年生。主人公でもあって、作中では……」
「それはわかるんだけど、どうしてここに突然?」
「いや……その……」康輔は頭を搔いた。「ほら、俺の部屋、棚や机の上はもうフィギュアで一杯だろ? 新しい置き場所として、そこはどうかなって思ったんだけど……」
「それはどうかと思うわ」と、そのとき背後から現れた母親が、康輔の言葉を容赦なく断ち切った。「そこは花瓶を置くために、私が空けておいた場所なのよ」
「え……で、でも花瓶より、苺乃宮愛奈のほうが……」
「いけません。ここには花瓶を置くんです」
「あ、ちょ、ちょっとママ! 鄭重に扱って、それ結構繊細だから!」
母親と康輔の諍いに苦笑しながら、桃香は靴の爪先を床へと打ち付けて玄関の扉を開けた。「行ってきます」と声を掛けると、揉み合っていた二人は振り向いて、「行ってらっしゃい」と挨拶を返した。桃香は笑顔で頷くと、自転車に跨って道路へと出た。
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