其の六十五・とある密告者の話(元桑651・睚眦)

 螭吻ちふん負屓ひきの両国に戦を吹っ掛けた狻猊さんげいの国に、謎の殺戮者が現れた。その者は人を殺しては心臓を抉り取り、死体の軍団を操って血の嵐を巻き起こした。いくら大陸屈指の大国である狻猊の国でも、国の内と外の戦乱でどんどん消耗していった――

 声の主は言った。

「大陸一の大国なら、自分たちで戦わなくても、お金で睚眦がいさいの国の傭兵部隊を雇えば済むんじゃ……?」

 子供はシンプルな疑問を口にした。

 理由は簡単だ。睚眦の国もからさ。

 じゃあ、とある密告者のお話をしましょうか。

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 大陸で一番力強い国は、傭兵を生業としている睚眦の国だと言われている。

 睚眦の兵を動かせるものは二つのみ。

 一つは報酬である。かの国は報酬次第では誰の味方にも、誰の敵にもなり得る。

 一つは恨みである。かの国は仇をなす者を決して逃さず、あらゆる手で復讐を遂げる。


 ある日、一人の女が睚眦の王を訪ねに来た。

 大きな荷物を背負った女は長旅で憔悴し、右腕の肘以下はごっそりなくなっていた。彼女は自分は結界の国から逃げ出した官吏だと明かし、ある重大な秘密を打ち明けた。


 女は代々文献書籍の管理を任されてきた文官の家に生まれた。彼女の両親も、祖父母も、古文書の解読や整理に心血を注いだ。

 結界の国には各国から集められた貴重な文献がたくさんあり、それらの保全と管理に関わることは、女にとってはこの上ない誇りであったが、その誇りは父親が死の間際に告げた一家の秘密によって打ち砕かれた。

 この国は、数百年前に世界を人喰いの獣たちから救った英雄の一人を暗殺した。罪を犯した者はほかでもない、彼女の家の先祖であった。

 自分の罪を悔いた先祖の親書や、暗殺の際に用いられた毒壺を目にしても、女は信じられなかった。

 自分たち国民を守り、結界で外界から守った慈悲深い国が私利私欲のために救世主である英雄を殺すわけがない。それを証明するために、女は多くの文献を調べたが、すぐに疑念を持ったのは自分が初めてではないことに気付いた。

 彼女の家族はみな仕事に没頭し、罪を否定できる証拠を探したが、その努力はことごとく裏目に出てしまった。

 国は結界の力を維持するために、王族の血を引く人間を厳しく監視し、時には容赦なく抹殺した。普通の民は王家の身勝手な基準で格付けされ、売買されることもとうに常態化していた。

 何よりも恐ろしいのは、国はこっそり人喰いの獣を飼いならしていた。罪のない平民を生贄に、獣の力を手に入れようとした。

 恐ろしい秘密に耐え切れず、女は裏で情報を流した。人々が真相を知ることで、何かが変わると期待した。

 しかしこの国は女が想像以上に閉鎖的な国であり、王室も想像以上の支配力を持っていた。異議を唱える人は徹底的に弾圧され、神を疑う邪教の信者として拷問にかけられ、辺地へ追放された。女の娘も邪教の信者として追放され、傭兵部隊の粛正によって命を落とした。

 天涯孤独の身となった女は国に失望し、命からがら傭兵の国へ逃げ込んだ。


 どうかあの呪わしいの結界を打ち破り、国の悪事を白日に曝してほしい――

 密告者の女は睚眦の王に願い出た。


 囚牛の国は、守護神の力を宿した神器――庇護の甲羅――によって生成された結界に守られている。

 庇護の甲羅は人の宿敵であるけものですら破れない最強の盾だが、それを突き破れる唯一の武器は、睚眦の国にある最強の矛――呵責のやじり――だと伝えられている。

 しかし呵責の鏃は、最強で最恐の武器であり、使い手に力を与える代わりに、その身を亡ぼす呪いをかけるため、六百年もの間その使用を固く禁じられていた。

 鏃を用いて囚牛の結界を破けば、使い手である王は命を落とす。国にとっては一大事である。

 睚眦の若き君主は、こう答えた。

 我に命を差し出させる程の報酬があれば、引き受けることもやぶさかではない――


 若き君主は数年前にたった一人の兄をなくし、娘もまだ年端の行かない子供で、どれだけ莫大な報酬があろうと、呪いの鏃を使って挙兵する訳がない、と臣下らの誰もが思った。

 女は古びた書簡と、王家の印の入った壺を献上した。

 その昔、睚眦の英雄は獣との戦で多くの人間を救ったが、戦後数年も経たないうちに謎の死を遂げた。書簡には、英雄の死は結界の国の王族による暗殺である証言が書かれており、暗殺で用いられた毒は壺の中にある、と女は告げた。


 今も英雄らの彫像が聳え立ってる宮廷に激震が走った。

 若き君主の顔色も一瞬変わったが、首を縦に振らなかった。

 これしきの証拠では少なすぎた。大昔に死んだ英雄のことを持ち出しても、お前の故国の連中は認めないだろう。


 では私が毒を飲んで見せよ。この毒の発症には特徴がある。貴国の英雄が死ぬまでの症状の記録と照らし合わせれば、全ては真実だと世間に知れ渡ろう。

 女は躊躇わずに壺の毒物を飲み込んだ。


 睚眦の国は結束力が固く、仇をなす人間には徹底的に復讐する。しかしそれが三百年越しの悪意だとしたら、果たして一矢報いる価値があろうか。

 若き君主はそう思わなかった。彼は高き理想の虚しさも、民の命の重みも十分知っている。だから渋るふりをして、女が自ら毒を飲むように仕向けた。彼女が死ねば、結界の国の闇は他国に知られることはなく、手に入れた証拠品でかの国をゆすれば、戦よりもっと安全で効率的に欲しいものを手に入れられる。

 悪く思うな――

 せめてもの情けに、と若き君主は毒に侵され、虫の息となった女の最期を看取ろうとした。

 女は最後に娘の名を口にし、一筋の涙を流して事切れた。

 聞き覚えのある名だった。彼が賊の討伐戦で出会い、愛した女の名であり、彼の兄が命と引き換えに連れ帰った赤子の母親の名であった。


 後日、睚眦の君主の親書が結界の国の王へ届けられた。

 我が国の英雄を暗殺した報いを、今こそその身に受けよ。

 睚眦の国は、これより囚牛の国を不俱戴天の仇と見なし、宣戦布告する。

 睚眦のうらみを、滅びをもって償え――


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 狴犴へいかんの国をはじめ、狻猊の国、螭吻の国、負屓の国に続いて、睚眦の国が囚牛の国に宣戦布告を出した時点で、全ての国は戦乱の渦中に突き落とされた。予言された二度目の試練は、等しくすべての人の頭上に降りかかるのであった。

 声の主は締めくくった。

「せっかく龍神様から授かったお宝を、獣退治のために使うのはまだ分かるけど、殺し合うのに使うなんて、祟られちゃうよ」

 子供はため息をついた。

 人は分不相応な力を手に入れると、得てして傲慢になり、気が大きくなりすぎて痛い目を見るんだ、と声の主は応じた。

「その女の人の話が本当なら、王様の娘は彼女の孫娘ってことになるよね?もしかしたら王様は最初に女に会った時に、すでに何かうすうす感じてたかもしれない」

 きっと彼は大昔の英雄よりも、家族を失った恨みを晴らしたかったんだ、と子供は付け足した。

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