其の五十七・とあるはぐれ者の話(元桑622・覇下)

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 理性を失わせる「魂抜たまぬけ」は、数十年もの長い間、獣たちをじわじわ蝕んでいった謎の病で、いつ、誰が発症するかは誰にも分からないけど、征野族よりも天翔族、天翔族よりも赫甲族が病にかかりやすいという傾向が見られた。

 声の主は説明した。

「虎や狼より鳥が、鳥よりも虫が病気にかかりやすいってこと?」

 子供は首を傾げながら聞き返した。

 昆虫が大多数を占めている赫甲族は比較的に知能が低い。ただし赫甲族に限らず、天翔族の蝶や蜂、征野族の兎や鼠からも発症者が多いことから、個体が小さく、本能的に生きている獣ほど魂抜けに罹りやすいと考えられていた。

 声の主は淡々と続けた。

 じゃあ、とあるはぐれ者のお話をしましょうか。

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 その昔、人と獣は地上の支配者の座を巡って激しく争った。

 人に負けて居場所をなくした獣たちを憐れみ、龍神様が人に授けた守護神のうちの一柱――覇下はか――は彼らに知恵と言葉を与え、地下に獣たちの世界を作り上げた。

 しかし時が流れ、覇下の力が衰え、獣らの間に理性が失われる謎の病が広がった。獣たちは仕方なく、ほかの守護神を戴く人に助力を乞うた。

 とある国の国王は獣たちにこう応じた。

 我らの守護神の血が流れている子をそちらにやる代わりに、そちらも我らの臣下となる獣を渡せ――

 かくして不俱戴天だった人と獣の国の間に、協力の黙約が交わされた。


 獣の国には、藍蜂あいばちの部族があった。

 藍蜂は人の姿に化けることもできなければ、部族の長を除き、言葉を喋れる者もほとんどおらず、獣の中ではあまり賢い方ではなかった。しかし長の命令に忠実な彼らは結束力が高く、集団のために個の命を惜しまない性質から、かつて人との戦いで大きく活躍した。

 人の国へやってきた獣の中には、藍蜂の男の子がいた。

 彼は長の命を受け、より多くの獣を助けるために人の国に入り、人という異種族を新しい主とし、命令に従って行動したが、いつまで経っても、人で溢れかえっているこの異国にも、人という生き物自体にも馴染めなかった。

 人のしゃべる言葉は耳障りな音に聞こえ、理解することも応えることも大変だった。何よりも彼を驚かせたのは、人は時に同族を傷つけたり、殺したりすることだった。

 獣の国に帰れず、人の国にも馴染めない自分をはぐれ者のように感じ、藍蜂の男の子は主のもとから逃げ出した。藍蜂は命令に決して背かないが、幸い「逃げるな」という命令は出されていなかった。


 しかし藍蜂の男の子は国境線を越えるはできなかった。守護神に守られているこの国は、目に見えない強力な結界に覆われており、彼の力では到底突破できなかった。

 それでも彼は人という良く分からない種族から逃げたくて、体がぼろぼろになるまで何度も何度も結界に体当たりした。

 やがて飛べなくなった彼は地に落ちた。身動き取れない彼に、何かが近づく物音がした。

 まだ足取りもおぼつかない小さな人の女の子が彼を見下ろし、にっと歯を見せた。

 獣が歯をむき出しにするのは、攻撃の前触れだ――

 身を強張らせた彼は、ぎゅっと目を閉じて死を覚悟した。

 だが女の子は彼を攻撃したりはしなかった。耳障りな声を上げながら、彼の頭を拙くなで、飲み水を分けてくれた。

 しばらくして女の子の両親らしき人たちが来て、傷だらけの彼を慎重な手つきで抱え上げ、家へ連れ帰った。

 その家には、粘土や木彫りの置物がたくさんあった。

 小さい女の子はそのうちの一つを持ってきて、彼に見せた。自分と少し似ている蜂が花に止まっている美しい置物だった。

 結界に守られている国で暮らしている家族は獣の存在を知らず、彼を普通の動物だと勘違いしたのかもしれない、と彼は気付いた。


 藍蜂の男の子は、怪我が治るまで人の家族と一緒に暮らすことにした。

 三人を見ていると、今まで知らなかった人の習性も少し分かるようになってきた。

 歯をむき出しにするのは悪意がある訳ではなく、嬉しさを表すためであったり。

 親と子というれっきとした上下関係があるのに、たまに子が親に逆らったり指図したり。

 言葉が通じなくても、人は別の生き物に根気強く、楽しそうに話しかけたり。

 特に幼い娘は、彼を友達としてみているのか、おもちゃを持ってきたり、手拍子を打ちながら歌ったりした。最初は耳障りにしか思えなかった人の声が、少しだけ心地よく聞こえた。

 その心地よさを、彼は恐れた。


 ○○○○に○○○○、○○○○なさい――

 主の命令が脳裏をよぎった。


 怪我が完治した日、彼は人の家族に黙って飛び去るつもりだった。彼に親切にしてくれた家族に、これ以上の迷惑をかけたくなかった。

 だが飛び立つ彼の姿は、偶然娘に見られてしまった。彼女は声を上げて彼を追いかけた。

 離れる決心が鈍りそうで、彼は振り返らずに飛び続けた。

 森に入る直前に、後ろから悲鳴が聞こえ、彼は慌てて振り返った。追いかけ続けてきた娘は、うろつく野犬に襲われていた。

 彼は咄嗟に引き返し、彼女にのしかかっている野犬目がけて毒針を刺した。

 娘は片耳を引きちぎられたが、幸い一命をとりとめた。

 彼は気を失った娘を抱えて医者の家まで飛び、誰かに見られる前に去った。


 藍蜂の男の子は、山々を転々とする日々の中でも、命の恩人のことを忘れなかった。

 長雨が何日も続いた夜のことだった。雨音に交じってひと際低くおぞましい轟音が、彼の触角と翼を震わせた。

 堤が決壊する音が命の恩人が住む村の方角から聞こえ、彼は弾丸のように飛んでいった。


 村に着き、彼はすぐに濁流にのまれかかっている屋根にしがみついている恩人夫婦の姿を捉えた。

 空中を飛ぶ彼の姿を認めた夫婦は、声を上げて何か訴えていた。意味はよく分からないが、娘の名前だけは聞き取れた。


 彼は暗闇の中、洪水に流された娘を捜した。

 娘が野犬に襲われた日のことは後悔してもしきれなかった。自分がもっと気を付けていたら、娘は耳を失わずに済んだ。だから彼はその日から命をかけても娘を守り切ると心に誓った。

「夜闇の暗殺者」という名を持つ藍蜂の一族は、闇を見通す目と獲物を嗅ぎ分ける嗅覚を持っている。それらを駆使し、彼は浮き沈みする小さな姿を見つけた。

 自分とほぼ同じ大きさまで成長した娘を抱えて親の元まで飛ぶとこはとてもできず、彼女を半分洪水に埋もれた老木の上に引き上げるのが精いっぱいだった。

 青白い顔の彼女の胸に触角を当てると、心臓の鼓動は今にも消えそうなほど弱弱しかった。

 恩返しはまだできてないのに、守ろうと誓ったのに。

 彼は自分の無力さを呪って、頭を抱えた。


(○○○○に○○○○、○○○○なさい――)


 藍蜂の繁殖のしかたは、ほかの獣と少し違っていた。

 雄が雌の背中に噛みつき、特殊な体液を分泌する。その体液で雄の体は徐々に雌に溶け込み、翼を除いて一体となり、溶けあった生殖器官が新しい命を育む。雌は雄の特性を受け継ぎ、さらに強化された個体となる。

 だがこの繁殖の仕方は、ほかの獣たちには忌み嫌われていた。雌が雄を殺して子をなすなんておぞましい、と。

 彼はその獣たちの考え方がよく理解できなかった。一匹の雄が雌に命をささげることで、たくさんの子供が生まれれば、種族にとっては素晴らしいことだろうに。

 だから彼もいつか命を捧げられる雌に出会ったら同じようにすると考えていた。


 人の子供に噛みつき、生殖行為を行いなさい――

 彼は初めて人の主にそう言われた時は、耳を疑った。

 藍蜂は異種族とも子をなせるが、それは体格に著しい差がない場合に限る。熊では大きすぎるし、兎では小さすぎる。人のような生物なら、五、六歳の子供が限界だが、その年の子供の体が未熟すぎるため、融合しても子供はできない。

 しかし、どうやら子作りは主の目的ではないようだった。

 藍蜂は優れた暗殺者だが、人の言葉を理解するのにも苦労するし、人の姿に化けられない。もし獣であることがばれたらいろいろと問題になる。だが子供と融合すれば、人の知能で命令を正確に理解できる上に、子供のなりで人を油断させることができる。まさにいいとこ取り。

 種族の繫栄のために命は惜しくないと思っていた。でも子供と融合しても何も生み出せない。それどころか、その子供は多くの同胞を殺すために使われる。こんな馬鹿げたことはあるのか。

 命令に逆らえない性質と、種族を途絶えさせてはいけない本能的な拒絶がせめぎ合い、彼はあの日逃げ出す道を選んだ。


 勢いを増す洪水がとうとう足元まで上がり、彼は意を決して娘の上半身を起こした。

 こんな頼りない翼は彼女を抱えては飛べないが、一人だけなら飛べる。

 子をなせない生殖行為なんて無意味だと思っていたが、今ではこの特性に感謝すらしている。

 どうかあなたが癒してくれたこの翼でここから飛び立ってください。

 あなたが助けてくれたこの命で大切な家族たちと生き続けてください。

 願わくば、人であるあなたは藍蜂の定めを逃れ、誰にも属さず、誰も殺さず、幸せな人生を歩まんことを――


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 獣たちは守護神の力を持つ人の子を手に入れるために、自ら仲間を差し出さなければならなかった。魂抜けに罹りやすい種族を人の国に引き渡すのも、実に合理的で効率的な策と言えるだろうね。それに、不殺生の誓いを破る獣など、切り捨てても構わないという思惑もあったかもしれない。

 声の主はまとめた。

「獣の国は、言葉が分かる者はみな仲間、とか謳ってたけど、結局それって自分が理解できないことを頭から否定して、仲間外れにすることで安心したいだけだという気がする」

 子供は首を傾げながら言った。

 君には少し難しいかもしれないけど、何かを拠り所にしなければ、アイデンティティは確立しないものなんだ。獣たちにとって言葉で分かり合い、同族を傷つけないことこそその拠り所であって、そこからはみ出したら、今までの自分を否定することになって、自我が崩壊する恐れすらある、と声の主はとりなすように言った。

「今までの自分を否定するのがだめだからって、ほかの生き物の生き方を否定するの?どんな生き物だって環境に合わせて進化するし、進化が怖いなら崩壊するか滅ぶかすればいいんだ」

 不満そうに頬を膨らませた子供はぴしゃりと言い切った。

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