其の二十一・とある裏切者の話(元桑324・負屓)

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 支配者の座を取り戻すために侵攻を始めた獣たちは、地上に上がり、国々に戦火の種を蒔いた。人に化けて離間の計を仕掛けたり、奇襲でいくつもの街を壊滅に追い込んだ。けれどこれらは本物のいくさ――大陸に住む人々を敵に回す全面戦争――を始めるのに必要なものを手に入れるための序章に過ぎなかった。

 声の主は語った。

「必要なものは、強い戦力だけじゃないの?」

 子供は首を傾げて聞き返す。

 兵力はもちろん大事だけど、二、三日では終わらない戦には、それを食べさせる食料と装備、足を休ませる場所が必要になってくる。

「補給機関が必要ってことだね」

 獣たちは負屓ひきの国に隣接する螭吻ちふんの国と睚眦がいさいの国を先に襲い、両国の兵力を大きく損なわせ、混乱に陥れたのは、負屓の国を孤立させるためだった、と声の主は説明した。

「守護神を持たない最弱の国を、自分たちの領土にするために……?」

 じゃあ、とある裏切者のお話をしましょうか。

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 自ら守護神を手放した国があった。

 神の力を振りかざして人々を虐げた王族を追い出したその国の民たちは、神に信仰を捧げる代わりに仲間を信じ、力を合わせて生きる道を選んだ。彼らは勤勉さと手先の器用さを頼りに道具を作り、工匠を輩出させたが、人々の暮らしに関わる技巧やからくりは戦には向かなかった。

 地上への侵攻を始めた獣たちは、守護神の加護を失ったこの国を真っ先に狙い定めた。力を合わせても獣たちの圧倒的な破壊力には敵わず、国の人々はいたずらに命を散らしていった。

 三つの大きい町と十の村が灰へ帰した後、獣たちは頑丈な城壁に囲まれた町にたどり着いた。

 この町の指導者は「命を捨てても誇りは捨てぬ」と固持する老爺で、激戦が予想されていたが、固く閉ざされていた城門は一夜明けて開け放たれていた。

 門を開けたのは、指導者の息子である若者だった。

 私たちは、獣たちに従い、抗わないことを誓う。その代わりに、命だけは取らないでください――

 彼は父親の首を獣たちに捧げて語り、恭順の意を示した。


 獣たちは人の卑しさを蔑み笑いながら、裏切者の彼を仲間に迎え入れた。

 この国の人間は弱い。束になってかかってきたところで獣たちに傷をつけることすらできないから、恐るるに足らない。なら殺し尽くすよりも、自分たちのために働いてくれる労働力を確保しておいたほうが都合がいい。

 若者は獣たちの傀儡として指導者の座につき、獣たちのために働いた。獣たちの居住区を作り、彼らに食料を献上し続けた。

 最初は若者を裏切り者とののしり、暴動を起こす民衆も少なからずいたが、後ろ盾である獣が若者に少し力を貸すだけで、ことごとく鎮圧されてしまった。暴動の首謀者たちは刑場へ引き立てられ、親族の者たちも罪を問われた。

 圧倒的な力の差を見せつけられた人々は、やがて抗う気力をなくし、耐え忍ぶしかなくなった。


 君みたいな物分かりのいい人間ばかりなら、無駄な血も流れずに済んだのに。

 彼の尽力にご満悦な獣の指揮者は、実に残念そうに言った。

 獣たちはこの国で確実に勢力を広げつつあり、各地で多くの人が死んだが、無血開城した若者の町だけは、奇跡的に獣による死傷者が少なかった。

 この国の人間は、いまだに弱者は力を合わせれば強者に勝てる夢に浸っているんです。命より夢を取ることほど愚かしいこともないとは思いませんか。

 若者はせせら笑った。

 この国は王族を追い出してから著しく弱体化し、ほかの国に依存せざるを得なかった。今度はその依存対象が他国から獣に変わっただけで、本質的には何も変わらなかった。


 若者は統治者として実に有能だった。

 耳目の者を民衆に入り込ませ、人々の動向を監視した。時に噂を蒔き、反意ある者をあぶりだし、連座の恐怖を思い知った人々がお互いを監視し合うように仕向けた。

 若者は宮殿のような豪邸を建て、その中で暮らした。自分が人々に恨まれていることも忘れることはなく、豪邸を高い防壁で囲い、厳重な警備を敷いた。

 町の城壁よりも、若者の邸宅の防壁のほうが何倍も堅く、まるで彼の強欲と野心の表れのようだ、と人々は囁く。声を大に責める人がいないのは、かつてそうした人がみないつの間にか消されることを、誰もが知っているからだ。

 私財をため込む若者を、獣たちは見て見ぬふりをした。彼は獣たちにそれ以上のものを貢いでいるのだから、これくらいの旨みはご褒美のようなものだろう。


 獣たちは侮っていた。

 この非力な国の夢見る人々は、絶望するほどの力の差を見せつけられ、押さえつけられても、夢を見続けることを諦めなかった。

 彼らはずっと待っていた。獣たちがこの国に根を下ろし、ずっと蔑んできた人々に奉仕されることに慣れ、油断しきった時を。

 一斉に蜂起した人々は、若者の豪邸を占拠し、獣たちに宣戦布告した。

 こんな騒動はものの数にも入らないと油断していた獣たちは、三日かかっても豪邸を落とせなかった事実に愕然とした。統治者の我欲が形作ったその豪邸は、もはや要塞に匹敵するほどの頑丈さで獣たちを拒んだ。

 更にそれに呼応するように各地で反乱軍が動き出し、あろうことか隣国からも大規模な援軍が結集され、国境線を越えようとしていた。

 その人々が手にしている武器は、獣たちの牙に噛み砕かれることはなく、一撃一撃が確実に血肉を削れる代物で、この国の工匠たちが命がけで鍛え上げた最高傑作だった。


 獣たちは、若者の豪邸を攻め落とすことはついにできず、初めての敗戦を喫した。

 長年統治者の座に収まっていた若者もまた、その豪邸から逃げることは叶わず、冷たい骸となり生涯を閉じた。


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 これは獣たちの襲来より十一年後の出来事で、長い時の中でたくさんの、本当に数えきれないほどたくさんの人が命を失った。でも負屓の国の工匠たちが鍛え上げた武器によって、戦況の流れが一気に変わった。獣に対抗するすべを手に入れた人々は、戦局を変えていく、と声の主は締めくくろうとし、

「裏切り者を殺したのは誰?というか、?」

 子供はすかさず問い詰める。

 彼を殺したのは――

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 今のままでは勝てない。我が国も、この大陸も、獣たちに蹂躙されてしまう。やつらは強すぎた。傭兵の国だって敗戦続きで、勝ち目なんてどこにあるというんだ。

 打ちひしがれる若者の頭に、老人のしわだらけの手が置かれた。

 敵を倒すには、まず敵を知ることだ。やつらの懐に入れ。弱点を探れ。機会はいずれ訪れる。やつらは我が国を虫けら程度にしか思っておらん。なら虎を食いつぶす虫けらの怖さを思い知らせてやれ。

 しかし、どうやって……?

 そうさな……まずはわしの首でも持って行ってみてはどうだ。

 老人の目には穏やかな口調とは裏腹に、爛々とした光を湛えていた。


 それから長い年月を費やした。どれだけの嘘をつき、どれだけの人に恨まれているのか、いちいち覚えてはいられなかった。ただ最後の勝利に繋げるために力を尽くした。

 対人用に見せかけて、対獣用の防壁を築き上げた。

 暴動に対する粛清を称し、人材を匿った。

 贅を尽くすふりに徹し、豪邸の地下に極秘の鍛冶場を作った。

 物資の流通を握り、隣国に流し続けた。

 

 おのれ、裏切ったな。いつからだ、いつから寝返ってやがった。

 獣は唸りを上げ、若者に牙を剥いた。

 裏切るとは心外だな、私はあんたたちの味方になった覚えは一刻たりともないのに。

 若者は自分の喉めがけて襲い掛かる巨体に怯むことなく、目を細めてせせら笑った。

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