其の十九・とある臆病者の話(元桑313・螭吻)
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太古の昔に人々に追い払われた獣たちは、地の奥へと潜り込み、そこで息を潜めながら生き延び、ずっと地上への侵略を企んでいた、と声の主は明かした。
「昔は神様の力を借りて獣たちに勝てたけど、
子供は悩ましげに唸った。
守護神を失った
「……びっくりするくらいバラバラだね……」
子供は呆れたように息を吐いた。
じゃあ、とある臆病者のお話をしましょうか。
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隣り合わせの両国の国境線が交わるその地に、三人の子供がいた。
国境線のこっち側の村出身の、おとなしくて臆病な男の子。
国境線のあっち側の村出身の、明るくて勝気な男の子。
国境線を跨いだりする行商人の一団出身の、優しくて物知りな女の子。
ほかの子供が臆病な男の子をからかっていじめている所を、通りかかった女の子が止めに入り、遠目にそれを見た勝気な男の子が駆け付け、いじめっ子たちを蹴散らしたのがきっかけで、三人は仲良しになった。
両国の境目にある小高い丘の上には、古びた鐘楼が佇んでいた。見晴らしがよくてめったに人が来ないここに、三人はよく一緒に遊びに来た。
この鐘はね、悪い獣たちと戦った大昔に建てられたものだったんだ。
鐘楼の中にある傷んで錆びだらけになった鐘を指さし、物知りな女の子は、もったいぶって仲良しの二人に語って聞かせた。
その昔、勇敢な人々に地の果てまで追い詰められた人食いの獣たちは、地面に穴をあけ、地底の奥深くへ身を隠した。人々は穴を埋め、獣たちが二度と出てこられないようにという祈りを込め、鎮魂の鐘を作った。
じゃあ、私たちが住んでるこの地の下にはまだ獣が潜んでるってこと?
臆病な男の子はくしゃりと顔を歪めた。
獣なんて誰も見たことのないただの昔話だろ、とっくに死んでるに決まってるよ!
勝気な男の子は友人を励まそうとした。
じゃあ、私が知っている獣のお話をいっぱいするから、どうしたら逃げ切れるのか、一緒に考えよう。
女の子はにっこり笑った。
獣が出ると、動物たちは一斉に隠れてしまうから、森がとても静かになるんだ、と女の子が言うと、早起きして森のそばまで出かけた。芝に寝転がって動物たちの賑やかな鳴き声に耳を傾け、今日も平和だねと笑い合った。
獣は人に化けて人を騙すから、はぐれた仲間がすり替えられた可能性があるから、お互いが本物か分かる質問をして確かめるんだ、と女の子が言うと、一緒に自分を証明する質問を考えた。臆病な男の子の首に星型のほくろがあることや、勝気な男の子は魚が嫌いなことや、女の子は行商人の一行に拾われた捨て子で、本当の親は知らないことなど、お互いの秘密をいっぱい知った。
獣は獲物をいたぶるのが大好きで、何かに気を取られている隙にとにかく遠くへ逃げるんだ、と女の子が言うと、どこだろうとそこでかけっこが始まる。逃げろ逃げろと大声を上げながら丘を駆け上ったり、川に飛び込んで泳いだりした。かけっこは臆病な男の子が勝気な男の子に勝てる唯一の遊びで、日が暮れるまで続くこともあった。
あの鎮魂の鐘は今は忘れ去られているけど、獣が現れた時に大きな音で人々に獣の襲来を告げる役割があるんだ、と女の子が言うと、錆びだらけの鐘の手入れをした。さびや汚れを落とし、ピカピカになるまで磨いた。これで怖くないだろう、と勝気な男の子が得意げに聞くと、うん、と臆病な男の子は嬉しそうに頷いた。
時が流れ、ごっこの遊びをしていた三人の子供は大人になった。
勝気な男の子は腕っぷしの強い兵士になり、臆病な男の子は臆病者のままだった。いろんな国を渡り歩く女の子とは、長い間会っていなかった。
ある日突然、女の子は臆病者の元を訪れた。すっかり大人の女性になった彼女は、隣国の人々に無実な罪を着せられ、ひどい目に遭ったと、仲良しの彼に助けを求めてきた。
その頃、とある旅の部族が隣国で事件を起こしたせいで、すべての部族がその国から叩き出されようとしていた。彼女も、その飛び火を喰らったのだろう。
臆病者は彼女をなだめ、村に泊めた。
次の日、彼女に宿を貸した村人が死んでいるのが発見された。
きっと隣国の兵士の仕業だわ!私を憎んで、国境を越えてまで殺そうとしているの。
彼女は恐怖の涙を流し、彼に訴えた。
臆病者は隣国の幼馴染の男に相談しに行った。
兵士になった彼は彼女が迫害を受けたことを知らず、何故自分には助けを求めなかったのかと落ち込んだようだったが、国境を越えて殺しをする不届き者を探し出すと約束した。
しかし、犯人を見つけ出す前に、今度は兵士側に死人が出た。
旅の部族の連中の仕業に違いない、やつらは魔物を操って人を殺すんだ!
兵士たちは激情にかられ、国境線に戦陣をしき、人殺しを出せと迫った。
滑稽にもほどがある、先に罪のない村人を殺したのはそっちだろ!
臆病者の国の兵士たちはその要求を拒み、負けずに迎撃の準備を進めた。
事態の急転を目の当たりに、臆病者は身も竦む思いでいっぱいだった。
(誰も望んでいないはずなのに、国同士の戦争が始まろうとしている)
誰が戦争を望んでいるのか。戦争することで、誰が得をするのか。
(魔物を操る一族の噂)
もし魔物なるものが、人々の記憶から消えかけていた獣だったら、人が魔物をではなく、人が魔物に操られているのではないか。
(きっと隣国の兵士の仕業だわ!)
なぜ兵士はわざわざ国境を越えてきたのに、彼女ではなく村人を殺したのか。
(獣たちは地底の奥深くへ身を隠した)
獣たちが地上へ出るとしたら、どんな時を狙って出てくるのか。
(獣は人に化けて人を騙す)
にらみ合う両国の軍の目を忍び、臆病者は兵士の彼を誘い出し、昔よく一緒に遊んだ丘の近くで彼女と落ち合った。森はやけに静かで、鳥のさえずりすら聞こえなかった。
三人で会うのは実に数年ぶりで、兵士の彼は彼女の手を取り、絶対に戦争を防ぎ、彼女を守ると誓った。
そういえば、君の両親は元気にしているかい。
臆病者は心配そうに彼女に尋ねた。
父も母も、逃げてくる途中で乱暴者の兵士に切られ、もう……
彼女は目を赤らめて言葉を詰まらせた。
(獣は獲物をいたぶるのが大好きで、とにかく遠くへ逃げるんだ)
(俺がこいつを引き止めている間に早く逃げろ)
記憶の中の少女の声と目の前の彼の怒鳴り声が重なる。それを耳にした臆病者は、はじかれたように走り出した。
化けの皮をはがされ、咆哮を上げる獣と、それに対峙する竹馬の友を置き去りに、彼は走り続ける。
後ろが静かになったのは、一瞬の後だったのか、しばらく経ってからかは分からない。
臆病者はただ迫りくる足音と唸りを聞きながら、丘を駆けあがる。
かけっこなら誰にも負けたことはない。
そう念じている臆病者の足に、追いついた獣の鋭い牙が食い込む。
ぐしゃっと鈍い音が鳴り、彼の右足は膝から消えた。
残った片足で臆病者は跳び、獣に首をかぶりつかれるより一歩早く、終点にたどり着いた。
渾身の力を込めて体当たりした鎮魂の鐘は、空を貫かんばかりの音を響き渡らせた。
(あの鎮魂の鐘は人々に獣の襲来を告げるんだ)
臆病者は血に染まった視界に浮かぶ三人の子供の姿に微笑んだ。
ほら、今度のかけっこも、私の勝ちだ――
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数百年ぶりに鳴り響いた鐘の音は獣たちの再来を告げ、一回目の災い――人と獣との大戦――が、これより正式に幕を開ける。
声の主は締めくくった。
「少しだけ、天国とか信じたい人の気持ちが分かってきた気がする」
どんな気持ちだと思うんだい、と声の主は聞き返した。
「誰にも知られずに死んでも、誰にも恥じずに生きたんだってことを、大切な人に知ってほしいって気持ち」
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