其の三十七・とある恋慕者の話(元桑340・睚眦)

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「粛清の英雄は、お姉さんの方が暗殺されたけど、弟さんのほうは大丈夫かな」

 子供は心配そうに聞いた。

 毒殺事件の後はさすがに国の方々も神経を尖らせて警戒してたから、弟は同じ手にかかって死ぬことはなく、そのまま睚眦がいさいの国の王家に婿入りしたよ、と声の主は解説した。

「お姉さんの分まで、幸せになってほしいね」

 じゃあ、とある恋慕者のお話をしましょうか。

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 練武場であの人を初めて見た瞬間に、その場に釘付けになった。

 烈火のごとく勇ましさで薙刀を振り回し、旋風のごとく猛々しさで切り込むその姿は、言葉を失うほど見事であった。

 あっという間に相手を打ち負かしたあの人と目が合い、寒気に似た甘い痛みが全身を駆け巡った。

 これが、恋焦がれるということか。


 あの人に近付きたいという浅はかな願いから何度も手合わせを頼んだが、一度たりとも勝つことは叶わなかった。

 たとえ王女様と言えども、手加減はいたしません。

 わざと負けて王家の面子を立てるような無粋な真似とは無縁な実直さがまた好ましかったが、身分を弁えているあの人はいつも臣下の礼を欠かさず、二人の間にある隔たりは縮まることはなかった。

 それでも間近で月光が宿るような瞳を見つめれば幸福感が脳天を貫き、戦慣れした腕に助け起こされれば歓喜に身震いした。

 ああ、この人ほど恋しい人間はきっとこの世に存在しない――

 知れば知るほど、恋慕の情が募り、悲しさが募った。

 なぜなら、この恋は決して実らないことを知っているからだ。


 あの人の側には、いつも一人の人間がいた。

 二人は時に並び立ち、時に背中を預け合い、あらゆる修羅場を潜り抜けてきた。

 言葉を交わさずとも気持ちを分かち合い、目を合わさずとも互いの心を汲み取れる二人の世界に余人の立ち入る隙など、最初から無かった。

 すべてが閉じられた輪の中に完璧に仕上げられ、二人は一つの命を共有しているように寄り添い合っている。

 どんなに恋焦がれていようと、自分はその輪の中には入れないことは、幾度も思い知らされた。

 あの人の側にいられるその人間が羨ましく、憎たらしかった。

 その人間も、きっと自分の気持ちに気付いているに違いない。

 喉を焼くような渇きを抱きながらあの人の背中を目で追いかけていると、その人間が先に気付くことが多かった。

 まるでこちらの視線を断ち切るようにさりげなく間に立ち、あの人によく似た冷ややかな目で一瞥をくれる。

 その一瞥に秘められているのは無関心か、警戒か、優越感か、嘲笑か……

 いずれにしろ、人の恋路を邪魔する無粋な感情に違いなかった。 


 獣たちとの戦いがますます激しくなり、やがてあの人が国きっての凄腕として出征した時は、身を裂かれる想いだった。

 そばにいられないのなら、いっそ何もかも捨てて、あの人とどこかへ逃げてしまいたい――

 空想こそすれ、万民を捨てて我欲に走るほど愚かではなかった。王女には王の采配に従って国土を治める重責があり、あの人には英雄として戦を終わりへ導く使命があった。

 王女は生涯添い遂げる相手を自分で選ぶことはできない。いずれ血筋のしっかりした重臣の家々から夫となる者が選出される。異国の出であるあの人が自分の側にいることは許されない。

 私が王家の女でなければ、あるいはあの人と一緒にいられる別の可能性もあったのかもしれないのに――

 月を仰ぐ目からとめどなく涙があふれ、自分に課せられた運命を呪わずにはいられなかった。


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 しかし既に知っているように、戦を終わらせた英雄たちは無事に各々の国へ帰還した。王女様も、戦で思い人を失わずに済んだ、と声の主は説明を挟んだ。

「今までは、自分の国の人としか結婚できなかったけど、戦が終わってからそのルールも変わったんだよね?じゃあ、王女様もこれ以上辛い思いはせずに、めでたく両想いで結婚?」

 ルールが変わったからこそ、王女様にとってつらいのはこれからなんだ、と声の主は続ける。

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 戦が終わり、時代が変わった。互いの力を認め合った国々は、王家の血筋に他国の人を入れることを認めた。異国の出でありながら英雄として凱旋したあの二人にも、縁談話が持ち上がらないはずはなかった。

 あの人は王家の長男――自分の兄にあたる人間――と婚約した。

 恋焦がれた相手は兄の伴侶として自分の家族になる。

 針で心に無数の穴をあけられたような苦しみを味わい、血も涙も枯れ果てた。

 

 先にあの人を見つけたのは私なのに。先にあの人に恋したのは私なのに。

 すべてをかっさらわれてしまう――

 こんな結末を見届けるくらいなら、戻ってきて欲しくなかった。戦場で果て、この報われない恋をきれいなまま終わらせればよかった、と誰にも向けることのできない悔恨を、心に抱き続けた。

 あの人は兄との結婚の儀が執り行われる前に病であっけなく死んでしまうとは、夢にも思わずに。


 戦神とも讃えられたあの人が、やせ衰えた骸を残して生を終えた。

 王家の矜持も、王女の品格もかなぐり捨て、遺体に縋りついて号泣した。

 愛しい人が生きているうちに思いを伝えておけばよかった。実らない恋なら死んでしまえと願うべきじゃなかった。

 先に逝かれてしまっては、まるで私が呪い殺したようではないか。


 後を追おうと思った。

 しかし、国に英雄は必要だった。あの人亡き今は、もう片方の英雄を繋ぎとめられるのは、一人しかいない王女である自分しかいなかった。

 あの人への恋慕の情に気付き、いつも邪魔立てばかりしていたその人間を、恋敵を、繋ぎ留めなくてはならなかった。

 

 不幸な出来事を忘れさせるくらい、盛大な婚姻の儀が執り行われ、叡智の英雄が戴冠した雷の国に続き、傭兵の国に二人目の女王が誕生した。

 女王の隣に立つのは、粛清の英雄の片割れである。

 その人間の横顔を、そっと眺め見る。

 あの人とよく似ている顔なのに、あの人を見た時に感じる幸福感や胸が苦しくなる思いはちっとも引き起こされなかった。

 やっぱり私が好きなのは、あの人だけだわ――


 その人間はふと一瞥をくれ、自分以外の誰にも聞こえないように小さくつぶやいた。

 本当に不思議だね。こうやって自分の隣に立つのは、彼女しかいないと思ってたのに。

 その一言に秘められているのは皮肉か、失望か、哀惜か、自嘲か……

 いずれにしろ、彼も半身をもがれた苦しみを味わっている。どちらの苦痛がより深いものであるか、比べるのもおかしな話だろう。


 あの人への恋慕の情は今も失われることなく、心に生き続けていることに気付き、憎く思っていたその人間にも微笑み返すことができた。

 まあ、同じ人を愛した者同士、これからも末永くよろしくお願いしますね――

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