其の三十・とある使者の話(元桑333・覇下)
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獣たちの侵攻を食い止めた六人の英雄のうち、一人だけその正体については一切伝わっていない。何故なら、六人目は、獣の血が流れている〈裏切りの英雄〉だから、と声の主は明かした。
「正義の英雄は、
子供は小首を傾げながらつぶやいた。
じゃあ、とある使者のお話をしましょうか。
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かの者は、目で見ることが許されず、暗闇の中で生まれ、暗闇の中で育った。
親はどんな者か知らないが、世話をしてくれる優しい乳母がいて、自分を抱きしめる大きな手はいつも暖かかった。
なぜ自分だけものを見ることができないのか、とかの者は乳母に聞いたことがあった。
あなたは、大切な使命を背負っている者だから、と乳母は語って聞かせた。
その昔、かの者の先祖たちは、美しい土地で暮らしていた。
しかし豊かな土地を狙う悪い人たちが攻め入って、この地に住む者を追い出そうとした。彼らは力を振りかざし、かの者の先祖たちを虫けらのように踏みつぶし、血に染まった手で征服の祝杯を掲げた。
住処を追われた者達は嘆き、ありったけの思いを一名の使者に託した。
故郷の景色と共に、我々の悲しみと憎しみを、その目に閉じ込める。
故郷を取り戻す時が来るまで、目を閉じ、闇を耐え忍び日々が続けよう。
しかしその目を開いた時こそ、我らの悲願は果たされる。
あなたこそ、目に力を宿した使者の子孫なのだ、と乳母は告げた。
私たちは今まで息を潜め、悪い人たちに怯えながら生きてきたが、いつか必ず故郷へ戻る。その時が来れば、きっとあなたの力が必要になる。
あなたは、故郷に遣わす大切な使者なのだ、と乳母はかの者の頭を愛おしそうに撫でた。
それからしばらくして、かの者の一族は、故郷を取り戻すための戦に出陣した。
自分もやっと、故郷の美しい景色を目にすることができる、とかの者も胸に憧れを抱きながら、戦の勝利を祈った。
しかし、未来は願えば思い通りになるものではなかった。敵は想像以上に残忍で手強く、一族の命は次々と奪われ、敗北の兆しは火を見るより明らかになった。
そしてかの者は、年老いた乳母に手を引かれ、故郷の地に立った。
煙と血の匂いがあたりに充満し、敵軍の勝どきが耳をつんざく中、かの者は戸惑った。
自分だけの力で本当にこの大軍から故郷を取り戻せるのだろうか。
迷うことはない、あなたはただ眼を開けばいい。
乳母はかの者の背中を押した。
かの者は、生まれて初めて目を開いた。
最初に目に飛び込んだのは、どこまでも続く空に、ほんのり暖かい日の光。
何度も心の中で思い描いていた想像の景色より、実際に目にした景色のほうがずっと美しかった。
しかし視線を下げると、異変が起きた。
目を合わせた敵軍らしい人がいきなり苦しみだし、血を吐いて死んだ。
死んだ人の仲間が動揺し、かの者の仕業を見破ろうと視線を向けたが、目が合った瞬間に同じく血を吐いて死んだ。
目を合わせた人々は、まるで木偶の坊のようにばたばたと倒れていった。
人だけではなかった。
馬も、猟犬も、空飛ぶ鳥でさえも、かの者の視線に触れた途端、命を失った。
花はしぼみ、草木は枯れ、どす黒い残骸を残すばかりだった。
川は淡い銀色に輝くと乳母は言っていた。ではこの血に染まった川は銀色なのか。
森は鮮やかな緑色だと乳母は言っていた。ではこの搾りかすのような枯れ木は緑色なのか。
これは本当に私たちの故郷の色だったのか、とかの者は動揺のあまり、叫びながら乳母を振り返った。
初めて見る乳母の顔は皺だらけで、優しそうな笑みを浮かべながら、かの者の視線を受け止めた。
奪われた憎しみは消えない。追われた悲しみは癒えない。
取り戻すことができないなら、誰の手にも渡さない。
目に焼き付けて、目で焼き尽くせ。
それがあなたの目に与えられた力で、あなたに課せられた使命――
その言葉と共に、乳母の命は終わりを迎えた。
最愛の者すら
目の力から逃れられる生き物はなく、どこまでも死が広がっていた。
やがて死に覆いつくされた土地に立ちすくみ、ふと耳に届いたのは、どこかの廃墟から微かに聞こえる人の赤子の泣き声だけとなった。
かの者は吸い寄せられるように、泣き声のほうへ向かった。
自分の使命とは何だったのか考えながら歩き、瓦礫や死体に何度もつまずいたが、最後はなんとか赤子にたどり着いた。
泣き声は止んだ。
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かの者は、ただ一目故郷の景色を見たかったけど、その願いは到底叶えられるものではなかった――
と声の主は締めくくった。
「目を開けている限り、見たい景色が永遠に見られないんなんて辛いね」
獣だからって、そんな辛い運命を背負わされたらかわいそうだよ、と子供はつぶやく。
おや、よく獣だと気付いたね、と言いながらも、声の主は別段驚くでもなかった。
「敵に関してだけ『人』って呼ぶから、なんとなくそうなのかなって」
最終決戦の際、英雄たちはおとり作戦を使い、敵の戦力を引きつけた。その時、おとり側に投入されたのが、目に映るものを殺す力を持つ使者だった、と声の主は明かした。
「でも、かの者はこれからどうするのかな。獣が人間の子供を育てるのって大変だよ」
君はこの結末をそう受け取るのかい。
「かの者は優しいし、瓦礫とかにつまずくのだって、目を閉じているからじゃないのかな」
かの者が裏切って殺すことをやめたから、人の勝利で幕を閉じたんだ、と子供は言った。
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使者とは、何かを伝え、取り結ぶものではなかろうか、とかの者は考えた。
何もない土地は寂しい。
そうだ、木を植えよう。木を植えて、花を咲かせよう。
そしていつか昔の美しい故郷を取り戻せた日には、私の代わりに見てくれる人もいて欲しい。
そう思いながら、かの者は腕の中ですやすや眠る赤子を大事に抱えながら、一歩外へ踏み出した。
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