其の七・とある盗人の話(元桑058・螭吻)

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「囚牛は強い結界で国を守るんだよね、こもり過ぎてだめにならないかな」

 引きこもりはよくないよ、と子供は心配そうに言った。

 徹底的に獣の脅威を排除するなら、命を危険にさらして戦うよりも、守りに徹する方がいいくらい、獣の脅威が大きかった時代だったんだ、と声の主は説明した。

「でも、囲まれた国にいるのはなんか息がつまりそうじゃん、もっといろんなところを自由に行き来したいよ」

 と口を尖らせる子供に、浪漫を見られるのは余裕のある人だけだよ、と声の主は苦笑しながら言った。

 じゃあ、とある盗人のお話をしましょうか。

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 人々が恐ろしい獣たちに怯える時代があった。

 長く暗い時代だったが、人々はやがて獣たちに対抗する手段を少しずつ手に入れた。

 誰かを守ることができる、と喜べるのもつかの間、人々は考えなければならなくなった。

 誰かを守れるならは、誰を守るのか。

 守り切れない時は、誰を見捨てるのか。

 獣たちによる人の選別の次に、人による人の選別が始まり、恐怖の時代は混沌の時代へ進み入った。


 その男の子は、入り江の地に育った「選ばれなかった」子供の一人だった。

 知恵や力を持つ大人たちは、高い城壁に囲われた安全な城に暮らせるが、幼い彼は多くの平凡で貧しい人々と同じように、城の外で暮らしていた。

 守ってくれる親はいなくても、何とか生きていかなければならない。痩せ細って、できることは何もない彼は、目と耳を働かせた。

 大人の体のかげに隠れて、果物屋から果実をとった。

 仕立てにいそしむ服屋が目を離したすきに、服をとった。

 盗人を探す怒声を聞きながら、上手に逃げ回った。

 入り江の黄色く濁った流れに隠れるように、誰にも見られるように、何かをかっさらっていく。

 その日も、彼はか弱そうな女性を見つけて、ぶつかったふりをしてものを取ろうとした。

 しかしその女性は彼が何かをとる前に、自ら手を差し伸べて言った。

 食べるのに困っているなら、一緒に来てみるかい。


 その女性はお忍びで外へ出ていた城の姫様だった。

 盗人の男の子は罰を受けるどころか、城の中で生活することを許された。

 そこの人々は、誰もが笑顔で、穏やかで、礼儀正しかった。不幸に嘆く人もいなければ、乱暴を働く人もいない。まるで陽の光を浴びた泉のように、どこまでも透き通っていて、キラキラしていた。

 怒りや嘆き、悲しみの濁流にもまれてきた男の子にとって、隠れ場所すらない清らかな水は、どこまでも息苦しく、恐ろしかった。

 そんな時、ふと姿を現した姫様は、彼の頭を撫でて言った。

 怖がらずに、あなたらしく生きなさい。もっと広い世界が見られるかもしれないよ。

 男の子は、恩人でもある姫様の言葉に従った。盗みしかできない彼は、目と耳を働かせた。

 目を見開き、自分の知らない知識や規則、仕組みを取り入れた。

 耳を傾き、方々から聞こえてくる言葉の皮を剥ぎ、本音を拾い上げた。

 たくさんの人と関わり、自分が必要としているものを少しずつかすめ取り、上手に立ち回れるようになった。

 そして偽善や甘言、駆け引きや騙し合いに満ち満ちたこの城の中も、城の外と大して変わらないことに気付き、城の中が居心地よく感じられるようになり、男の子は青年へと成長した。

 青年となった彼の目にも、姫様だけは裏表のない人間のように映った。

 取り繕ったような威厳や神聖性などなく、自由気ままな純粋さを持つ姫様は、好んで誰も進みたがらない道を突き進んだ。突飛な発想で周りを振り回し、それで救われた人もたくさんいるのに、彼女自身は決して意図して誰かに尽くそうとしているわけではない。

 それは薄汚れた自分ではとても盗み取れないものであり、それゆえにどこまでも羨ましくて、眩しかった。


 獣の脅威は少しずつ去り、この地で大きな国を作る機が熟した。

 小さな城の気ままな姫様を王の座に据えたら、どんな国になるのだろう――

 青年は思いをはせた。

 彼は王になりえる人達の人望や信頼を盗み続け、着々と準備を進めた。

 やがて人々のまなざしは、姫様と、姫様に忠誠を誓う青年にのみ注がれるようになった。 

 

 夜明け前、いつもの気まぐれに付き合い、青年は姫様と共に、入り江の景色を見渡す塔へのぼった。

 私と一緒に、海の向こう側へ行ってみたくはないかい。

 そう言った彼女は遥か彼方を指さし、目を細めた。

 黒く波打つ海面は徐々に藍色へ変わり、あけぼのの柔らかい光に縁どられていく。

 いつも見知らぬ先へ目を凝らす姫様は、すでにこの入り江の土地を見ていなかった。

 この方は、国というくさびで縫い留められる方ではない、と青年はやっと悟った。


 いいえ、私には、あの宝石のように輝く海の向こうは眩しすぎて、泥の混ざった濁流がうねるこの入り江の地がちょうどいいんです。

 青年は彼女の手を取る代わりに、静かに微笑み返した。

 この川は雨にも霧にも雪にもなり、薬なるものも毒なるものも分け隔てなく吞み込む。

 私も、ちっぽけなものをかすめ取るのはやめて、何もかも根こそぎ腹の中に収めてみたいです。


 それは、いつか戻って見てみたい気持ちにさせられるね。

 振り返らない姫様は、水平線を見つめたまま答えた。


 何年後でも、何十年後でもいい、もし海の向こう側の景色も見飽きてきたら、またこの地に戻ってみてください。

 にごり水にはぐくまれて育った国は、きっとあなた様を退屈させませんから。

 青年は深々と臣下の礼をとった。


 彼女は海へ進み、彼は陸へ戻る。


 もうじき、夜が明ける。

 

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 こうして、入り江の地に築き上げられたのは、囚牛の国とは正反対な性格の国、水の国、螭吻ちふんだ。彼らは水も泥も飲み込む入り江のように、どの国からの来訪客も受け入れ、変わり続ける――

 声の主は説明した。

「お姫様はロマンチストだけど、盗人の青年も負けないくらいのロマンチストさんだね」

 子供はくすりと笑った。

 いや、むしろリアリストだったから、彼はこの地に残ったんじゃないかな、と声の主は異を唱えた。

「だって、あの未知に夢中な姫様を『退屈させない』宣言したんだよ、ロマンチストにしかできないってば」

 どんな国を作って姫様を驚かすのか楽しみだね、と期待する子供に、それはまた別のお話さ、と調子を合わせた声の主はおどけて見せた。

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