其の五十二・とある絵描きの話(元桑594・囚牛)

**************************************

 豊穣を司る守護神を持つ獣たちは、地上の世界には必要かもしれない。でもこの仮説を人々に周知させるのには、まだまだ長い時間が必要だった。

「それだけ憎んでたのに、実はいいやつなんだーなんて言われても誰も信じないよね」

 子供は相槌を打った。

 憎き敵を味方として受け入れるのに何が必要だと思う、と声の主は聞いた。

「えっと、相手を知ることから始めないといけないんじゃないかな?」

 じゃあ、とある絵描きのお話をしましょうか。

**************************************


 国々を渡る行商人の多くは、蒲牢ほろう囚牛しゅうぎゅうと、どちらかの国の出身者だという。

 蒲牢の行商人は珍しい薬剤や動物、食料などを運び、人々の生活を助ける。

 囚牛の行商人は精巧極まる彫刻や書画、工芸品などを運び、人々の心を潤す。


 守りの結界によって守られている囚牛の民は、心の豊かさを追い求め、芸術の道を究める人材が輩出している。

 行商人の役割もまた商売だけでなく、各国を巡る旅で優秀な人材を探し、自国へ誘う。花を咲かせ続けるために、絶えず流れる水を補充し、淀みを防ぐ。


 とある宿屋に入った囚牛の行商人は、一目で壁に飾られているその絵に魅入られた。

 森の中にひっそりたたずむ廃墟の絵だった。

 灰と黄みが混ざり合う石は、息を詰まらせるような気配を漂わせていながら、ひび割れを這うツタは満ち溢れんばかりの生命力をより一層際立たせてもいた。

 こんな素晴らしい絵を描いたのは誰だい、と行商人は宿屋の主人を捕まえて問いただした。

 親のいないかわいそうな兄妹を下働きとしてここに置いてるんだ、その絵は下の妹が描いたものだ。しかし、こんな絵のどこがいいんだ?

 絵のことがさっぱり分からない宿屋の主人は首を傾げながら答えた。


 絵に魅せられた行商人は兄妹に会いに行った。

 兄の背後に隠れるように立っている妹は、まだ十も満たない幼い子供で、行商人のことを怯えた眼差しで見上げていたが、彼が絵のことを褒めると、嬉しそうに笑い、その場で絵を描いて見せた。

 枯れ木の絵。草木の生えない断崖の絵。奇怪な形の岩石の絵。

 どれも人の目を釘付けにする迫力があり、行商人は、女の子は絵描きの天才であることを確信した。しかし同時に、かすかな違和感を覚えた。宿で見た絵のような生命力がないのだ。

 なぜ生き物を描かないのか、と行商人は聞く。

 兄に描いてはいけないと言われたから、と女の子は答えた。


 行商人は、彼女の絵から溢れ出る生命力が一番の魅力で、もっと動物や生き物を描かせるべきだ、と兄の少年に力説したが、彼は首を縦に振らなかった。

 それでも諦めきれずに、彼女の才能を埋もれさせるのは惜しいと繰り返すと、根負けした少年は、行商人を宿の絵に描かれた廃墟まで連れて行った。

 季節は夏に入ろうとしているのに、その場所には草一本見当たらず、廃墟の残骸だけが息絶えたように砂と化した土に埋もれていた。

 絵とは真逆の荒涼さが漂う景色に、行商人は言葉を失った。


 最初は描かれた果物が腐って、その次は小鳥が死んで確信しました。ここはかつては森でしたが、あの絵が完成するとともに死に絶えました。

 妹は、生命力のある絵を描くのではなく、描いたものの生命力を奪ってしまうのです。

 少年は絵の秘密を行商人に打ち明け、頭を下げた。

 あの子は本当に絵を描くのが大好きで、この秘密を知るときっと悲しみます。だからこれ以上描かせるわけにはいかないのです。

 行商人はしばらく考え込み、分かったとだけ答えた。


 翌日、少年は行商人の泊まる部屋に呼び出された。

 おじさんの絵を描いてみたの。似てるかな?

 行商人の似顔絵を恐る恐る見せてくる妹のそばには、微笑んで見守っている行商人がいた。

 囚牛の国は、結界の力で守られています。私たちも、王の加護を受けていますから、不死身というわけではないが、そういった呪いの類には強いのです。

 行商人は種明かしをした。

 それでも絵に描かれてしまったら死んでしまうかもしれないのに、とまだ少し怒っている少年に、君の妹の才能には命をかける価値があるから、と行商人は迷わずに答えた。

 この似顔絵をごらん。こんなに生き生きしている。彼女は生命力を奪って絵にしているわけじゃない、彼女の絵が素晴らしいのは、描くことに対する愛情があるからだ。

 優しい行商人の言葉に、少年は堪えきれずに涙した。


 妹を囚牛の国に連れて行っていただけますか。あそこなら、きっと描きたいものはなんでも描けて、彼女は今よりずっと幸せになれます。


 囚牛の国は才覚に富む人には開かれた国だが、それ以外の人間の入国は許されておらず、一緒に連れて行けない詫びに、行商人は兄に暮らしに困らないほどの大金を渡し、兄妹は別々の道を進むこととなった。


 早朝、行商人が待つ馬車に、荷物の小包を大事そうに抱きしめた女の子が乗り込んだ。

 ちゃんとお兄ちゃんに別れを告げたのかい、と行商人が聞く。

 ぐっすり寝てるみたいだから、起こさずに来たの、と女の子は答えた。

 えらいね。これからは好きなだけ絵が描けるぞ。また素敵な絵を描いたら、私が君のお兄ちゃんに届けてあげるよ。

 うん!

 女の子は破顔し、腕の中の荷物を愛おしそうに抱きしめなおした。

 あのね、もうなんでも描けるって言われたから、お兄ちゃんが寝ている間に似顔絵を描いてきたんだ。これでずっとお兄ちゃんと一緒にいられるから、寂しくないよ。

 お兄ちゃんの絵、見ますか。

 女の子は照れくさそうに、ちょっと自慢げに荷物を行商人に掲げて見せた。


**************************************

 かつて目に宿った呪いの力で多くの生き物を殺した獣がいた。その獣は生き延び、人と結ばれ、子供が生まれた。代を重ねるごとに目に宿る不吉な力が弱まっていたけど、完全になくなることはなかった。この兄妹は自分たちの出自を知らず、ただ呪いだけ背負って生まれてきた――

 声の主は締めくくった。

「きっと彼女はいつか自分のしたことを知ってしまう。悲しんで、泣いて、たくさん後悔するだろうね」

 自分の持っているおぞましい力の正体を探るために、絵描きの女の子は、やがて獣たちにつながる真実を探る道を歩みだす、と声の主は続いた。

「敵を味方として受け入れるために、相手を知るのは大事だけど、始まりじゃないんだね」

 自分を疑うことがすべての始まりなんだ、と子供はつぶやいた。

**************************************

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る