第41話「本当の優しさ」

 一夜明けた今日は土曜日。学校は休みだが本来なら同好会の活動をしている日だ。しかし俺は部活には行かず、ぼーっと天井を眺めていた。


 あの後、俺は部室から逃げ出した。

 あの時、なぜあの言葉がフラッシュバックしたのかはわかってる。同好会の仕事で寝不足が続いて精神的に弱くなっていたのもあるが、一番の理由は結果が出ないことへの恐怖。


 金魚鉢の掲載が駄目になり、今までの頑張りが全て否定された。それはあの言葉を言われた時もそうだ。優しくあろうと努力していた自分の生き方を否定された。


 どうしてこうも何もかもが上手くいかないんだろう。自分では必死に頑張っていると思っていたのに。努力が足りないのか、それとも努力する方向が間違っているのか。そんなのは誰も教えてくれなかったし、自分で気付くことも出来なかった。


 小さい頃から結果を出すことが全てだと思っていた。なのに結果を出すことが出来ない自分。それがひどく情けない。結果が欲しい。どんなに小さくてもいい。今までの自分を肯定してくれる結果が欲しいだけなんだ。


 だがそれももう叶わない。結果が出ないことへの恐怖から俺は逃げ出して、結果を見る前に手放してしまった。


 それなのに俺は湊土や火野が迎えに来てくれるんじゃないかと期待してしまう。昨日のあれが本当は全て夢で、部活に来ない俺を心配して家まで迎えに来て欲しいと願ってしまう。だがそうはならない。当然だ。昨日の出来事は紛れもない現実なんだから、全て俺がやってしまったことだ。

 結局、一番の自分勝手は俺だったということだ……。




 月曜日の朝。制服に着替え居間に行くと、祖父と祖母がテレビを見ながら朝食を取っていた。


「おはようハルちゃん。朝ごはん台所にあるよ」

「うん……」


 俺が返事をすると祖母は再びテレビに顔を向けた。


「どしたぁ? なぁんか元気ないのう。なんかあったんか?」


 そんな祖父の腕を祖母は軽く叩いた。


「ハルちゃんくらいの年頃は色々あるんよ。だから、そんな風に訊いたら嫌われますよ」

「おおう、そうか。そりゃいけんわ。孫に嫌われたら生きとれんわっ」


 と祖父はおどけて笑う。知っていたが祖父は底なしに明るい。誰かを叱る時も怒りを表にはは出さない。俺に言った『どんな時でも女の子には優しく』というのを祖父は女だけに限らず全ての相手に実行している。


「ご、ごめん。急ぐから朝ごはんはいいや」


 俺は居た堪れない気持ちになり、そそくさとその場を後にした。




 家を出た俺だが学校には行かず、家からも学校からも離れた公園でただただ時が過ぎるのを待っていた。


 ベンチに座り何度もため息をこぼし俯く姿は、まんまリストラされたサラリーマンだ。

 もう俺の居場所はどこにもない。実家、祖父の家、学校、同好会。この公園だってそうだ。遠くからする小さな子供たちのはしゃぎ声が「お前が居ていい場所ではない」と言っているように聞こえてしまう。


 別の場所に行こう。

 俺が居てもいい場所。それがどこにあるのかわからない。どこにもないかもしれない。

 それならそれでもいい。留まることを許されないのなら流れ続けるだけだ……。


 その時ふいに俺を呼ぶ声が聞こえた。空耳かと思い無視しているとまた声がした。


「ハルくーんっ!」


 今度は完全に聞こえた。視線を上げると見覚えのある小さな女の子がこちらに向かって来る。


「ああー、やっぱりハルくんだっ」


 駆け寄って来たのはアパレルショップ『ソフィスティケ』のオーナーの娘、佐奈だった。


「さ、佐奈ちゃん。なんでここに居るの?」

「佐奈ね、こーえんにあそびにきたのっ。ママもいるよ」


 佐奈が指差す方を見ると、数人の大人と子供の中に佐奈の母親の姿が見え俺は軽く会釈した。向こうも俺に気付くと会釈を返す。


「ここは佐奈ちゃんのお家の近くなの?」

「うん。そうだよ」


 制服を着た佐奈は元気に頷いた。これから幼稚園に行くのだろうか?

 公園にある時計に目を遣る。時刻は九時……ではなく三時を指していた。いつの間にかこんな時間になっていたのか。


「ハルくんはなにしてたの?」


 佐奈は可愛らしく小首を傾げる。


 俺は……何をしてたんだろう。締め切りまであと三日。本当なら最後の追い込みをしていたはずだ。なのにどうして俺はこんな所に居るんだろう……。


「……わからない」

「えー、なんでわからないの?」


 佐奈は不満そうな声を出すと、もう一度母親のいる方を指差した。


「佐奈はおともだちとあそぶんだよ。ほら、まなちゃんとあいちゃんっ」


 佐奈と同じくらいの歳の女の子が楽しそうに遊んでいるのが見えた。そういえば、佐奈は友達が沢山いると言っていたな。


「お友達と遊んだほうがいいんじゃない?」


 こんな俺と居るよりそっちの方が楽しいだろう。そう思って言ったのだが佐奈は「えへへ」とはにかむ。


「おともだちとあそんでるよ、だってハルくんは佐奈のおともだちでしょっ。やくそくしたもんね、また佐奈とあそぶって。ハルくん、ちゃんとやくそくまもってくれたっ」


 佐奈は俺が約束を守ってくれたと思い込み無邪気にはしゃぐ。

 偶々この公園に居ただけなんだが……それをわざわざ言う必要もないか。良いように勘違いしてくれたのなら俺にも佐奈にも損はない。俺は小さく頷いた。


 すると佐奈は、

「やっぱりハルくんはやさしいねっ」

 と満面の笑顔を俺に向けた。


 そんな佐奈の顔を俺はまともに見ることが出来なかった。

『子供ならまだ矯正できる』佐奈と出会っと時に俺が言った台詞。

 いったい何様のつもりなんだ。思い上がりにも程がある。本当に矯正が必要なのは他の誰でもない、俺自身じゃないか。


 約束を守ってくれたと素直に喜んでくれた佐奈の気持ちを俺は利用したんだ。どちらにも損はないなんて嘘で、本当は自分を良く見せたかっただけなんだ。

 俺はこんな小さい女の子の思いさえ手放してしまった……。


「どうしたのハルくん。おなかいたいの?」

「……お腹は痛くないよ。どうして?」

「だってハルくん。ないてるよ」


 言われて自分の顔を拭ぐ。見ると手の甲は濡れていた。

 慌てて取り繕うとしたが言葉が出てこない。こんな情けない自分を取り繕う言葉なんてあるはずがなかった。


 ただ茫然としていると佐奈は心配そうな顔で近寄り、

「だいじょうぶ?」

 と声を掛けて俺の腹を撫でた。


「佐奈がおなかがいたいときは、ママがよしよししてくれるよ。だからハルくんもよしよししてあげるねっ」


 柔らかく暖かな感触が伝わると、ふいに幼い頃の記憶が蘇った。



 佐奈と同じくらいの歳の女の子が泣いていた。俺がその子を慰めると、泣いていた女の子は笑顔になってくれた。それだけの自分でも忘れていた古い記憶。


 俺はそれに対して特別なにも思わなかった。単純に女の子が泣き止んで元気になってくれたな、としか感じなかった。だがそれを母が褒めてくれたんだ。

「元日は優しくて良い子だね」と。


 そう言われた瞬間、なんとも言えない快感があった。

 それから俺は、そんなことがあると同じような行動を取るようになっていた。泣いている子がいれば慰め、喧嘩があれば仲裁する。すると母はまた俺を褒めてくれた。祖父母も褒めてくれた。


 いま思えば、そういう場面をあえて探していたのかもしれない。母に褒められる快感が癖になっていたのだろう。初めは本当に何気ない行動だったのに、いつしか俺はそれに対価を求めるようになっていたんだ。


 そして、それを繰り返しているうちに求めるものは大きくなっていった。母や祖父母だけでなく、もっと多くの人からの対価を欲した。小さい頃の成功体験が忘れられず、優しくすることで全ての相手から感謝や称賛という対価、結果を求めてしまった。もうそこには相手への気遣いなんてものはない。ただただ快楽を味わうだけの自己満足。


 祖父に言われた言葉に自分の欲望を隠し、信念だと思い込んだ。

 俺の中にあった優しさの正体とはそんな歪んだ心だったのだ。


 それを見透かされたのがあの日。

『なんか勘違いしてない? あんたのいい人って、どうでもいい人って意味だよ』

 全ての人間から対価を欲した俺の優しさは極限まで薄まっていたんだろう。しかもそれが自分を満たすためだけの、偽りの優しさとなればこう言われるのも仕方がない。


 だが俺はそれを認めなかった。自分を正当化したくて間違っているのは女の方だと真実から目を逸らした。それを覚醒した、変われたと勘違いしたのが今の俺だ……。



「まだ、いたい?」


 佐奈はそんな俺の腹を優しく撫で続けていた。

 今まで嘘の優しさだけを与え続けた俺には本当の優しさなんてわからない。知らないはずなのに。佐奈の手からは感じるのは本当の優しさと言えるものだった。

 俺はその小さな手をギュッと握り、泣いていた。


 仲良くなった佐奈から優しさという対価を手に入れた。それは俺が求めていた一つの結果だ。それなのに、今の俺の心は悲しい気持ちで溢れている。

 嘘の優しさで得たそれは悲しく虚しいものだった。

 この小さな手がそう教えてくれた。


「……ありがとう佐奈ちゃん。お兄ちゃんわかったよ」

「なにが?」

「なんだろうね。でも佐奈ちゃんのお陰で元気になったよ」

「ほんとっ? 佐奈がよしよししてあげたからかなっ?」


 そう言って佐奈は少し恥ずかしそうに笑顔を見せた。


「うん、そうだよ。佐奈ちゃんは凄いね」


 感謝すると佐奈はその場でくるりと回り感情を表現した。

 そんな佐奈に言うべきではないかもしれないが、俺はここに居た本当の理由を伝えることにした。


「本当はね、お兄ちゃん佐奈ちゃんとの約束を守ってここに居たんじゃないんだ。友達に悪いことして、どうしようって悩んでたんだ」

「わるいこと? おともだち、なかしちゃったの?」


 俺がここに居た理由を話すと佐奈はがっかりするどころか、俺を心配する言葉を返した。この子はどれだけ本当の優しさを持っているのだろうか、と感じるとまた涙が出そうになる。俺はそれをグッと堪えた。


「……うん、泣いてた。それと悪口も言っちゃったんだ」

「そうなんだ。でもハルくんもないてたよ」

「ははっ……そうだね。なんで俺が泣いてんだろうね。でも、その友達は俺よりもっと泣いてると思うんだ」


 こんな話をされてつまらないだろうに、佐奈は俺の言葉一つ一つに頷いてくれた。そして自分の考えもしっかりと俺に伝えてくれる。


「佐奈はわるいことしたら、ごめんなさいするよ。ハルくんも、ごめんなさいすればいいよっ」

 と白い歯を見せた。


 あんなことをした俺をあいつらは許してくれるだろうか、と不安がよぎる。

 それでも、謝らなければならない。佐奈から貰った優しさを無駄にはしてはいけない。


「ありがとう。佐奈ちゃんは優しいね」

「うーん、ふつうだよ。だってハルくんもやさしいもんっ」

「お、俺は……」


 言いよどむ俺に佐奈はこう続ける。


「ママもパパもやさしいし、せんせいも、ともだちもみんなやさしいよっ」

「みんな優しい……か」


 そうだよな。優しさなんてそれくらい当たり前でありふれているものなんだよな。それを俺はさも特別かのように思ってた。物凄く価値のあるものだと勘違いしていた。


 あの言葉を言われた俺がやるべきだったこと。

 結果だけを求める嘘の優しさ――それを捨てることだったんだ。


 笑う佐奈の頭を撫でて俺はベンチから立ち上がる。

 俺にやれることは全てやってみよう。もう結果を求めることも、それが出ないことへ恐怖するのもやめだ。


「佐奈ちゃんお兄ちゃん行くね」

「えーっ、やだ。まだハルくんとあそびたいっ!」

「ごめんね。どうしても行かないといけないんだ」

「……うーん。じゃあやくそくしよ。また佐奈とあそんでっ」


 以前と同じように小指を立てた手を向けてきた。


「約束。佐奈ちゃんとの約束は絶対に守るよ。だって俺と佐奈ちゃんはお友達だもんね」

「うんっ!」


 そう、今度は本当の約束だ。打算でも嘘の優しさでもない純粋な佐奈との約束。


「じゃあね佐奈ちゃん、また遊ぼうねっ」

「うん。またねハルくーんっ」


 走り出した俺に佐奈は目一杯手を振っていた。

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