第39話「馬鹿みたいだ」
それからはまさに怒涛のような日々だった。
美空が来月号の発行を見送ると取材先や広告主に連絡を入れていたので、それらに俺は来月号は発行すると連絡を入れ直したのだが、一度発行しないと言っておきながら、すぐさまの方向転換に色々と文句や愚痴を言われた。それだけで俺の精神はすり減らされた。
更にまだ校了していない広告の制作や確認。同時に紙面の作成も行っていたので、あれからたったの三日しか経っていないのに、俺は五歳くらい老けたと思えるほどの疲労を感じていた。
「ハル大丈夫? はいこれ」
湊土は俺を気遣いながら自販機で買って来たホットコーヒーをデスクに置いた。
「ああ……すまん。ほらこれ」
俺がコーヒー代を渡そうとすると湊土は、
「いいよこれくらい。それよりちゃんと寝てる?」
「心配するな。ちゃんと寝てるよ」
湊土にはそう言ったがイマガクを発行すると決めた日から俺はほとんど寝ていなかった。昼間の授業をサボってでもやらなければならないことだらけ。慣れない美空の仕事はこなすだけで精一杯なのだが、それが次から次にやって来る。寝ている時間などないのだ。
「それより金魚鉢の写真はどうなってる?」
「それなら桃火ちゃんが今撮影してるよ。そろそろ終わる頃だと思うけど」
「そうか。写真が来たら加工は俺がやるから湊土は紙面の作成を続けてくれ」
「写真の加工は僕がやっとくから。ハル、今日はもう帰って大丈夫だよ」
「そうはいかないだろ。俺が言い出しっぺなんだから俺だけ帰れない。それにお前は紙面のデザインと作成があるんだから、そっちを優先してくれ。写真の加工くらいなら俺でも出来る」
「で、でも……」
心配そうに見てくる湊土へ俺は笑顔で答えた。
「俺は大丈夫だからお前はそっちを頑張ってくれ。素人目だけど湊土のデザインはかなり良い。部長と比べても遜色ないよ」
「そ、そうかな? お世辞だとしても嬉しいかも……。あははっ」
「俺がお世辞なんか言うと思うか? 部長が居ない今はお前がここのエースなんだから、もっと自信持てよ」
軽く肩を叩くと湊土は小さな声で「ありがとう」と照れていた。
「ただいまー。写真撮って来たよ」
「はあ~疲れたぁ~。元日くん黄金の肩揉んで~」
少しすると火野と金魚鉢が撮影から戻って来た。
「嫌です。作業があるので金魚鉢先輩はそこら辺で勝手に休んでてください」
「えぇ~、いじわる。でも元日くん頑張ってるから許してあげるよ。そうだっ、じゃあ黄金が肩揉んであげるねっ」
金魚鉢は言いながら俺の肩を揉む。自分が揉んでもらいたいんじゃなかったのか?
作業の邪魔なので払いのけようとしたのだが……これは……。金魚鉢の細い指が的確にツボを刺激して、なかなか気持ちいい。普段は臭いとしか思えない香水の香りが、疲れた俺の体をリラックスさせると徐々に意識がまどろんでいく。
「元日くん、気持ちいい?」
金魚鉢が耳元で囁く。俺は素直に答えた。
「そうですね。結構気持ちいいです……」
「ふふっ。正直でかわいい。そんなに気持ちいいんだぁ。黄金、初めてだからうまく出来て嬉しい」
「俺も初めてです……。こんなに気持ちいいものだとは知りませんでした……」
肩を揉まれるなんて人生で初だ。大人がやたらと整体やマッサージに行く理由がわかった。これは何も抵抗出来ないほど気持ちいい。
「ねぇ、もっと激しくしていい? 黄金、激しくしたくなっちゃった……」
今のままでも充分気持ちいのだが、金魚鉢の言う激しい肩揉みにも興味が出てしまった。
「……はい。先輩の好きなようにしてください。お任せします――」
「いつまでやってんのよっ!」
ふいに頭を叩かれて顔を上げると、火野はなにやら赤い顔でカメラのメモリーカードを俺に差し出していた。そういえば今は学校の部室だったな。肩揉みの気持ちよさで意識がどこかに飛んでいた。
「もう~桃火ちゃん。せっかく元日くんと気持ちいいことしてたのに~」
「へ、変な言い方しないでくださいっ」
「変ってどういう意味かな? 真っ赤な顔で桃火ちゃんはなにを想像しちゃったんだろう~」
「べ、別に何も想像してませんっ。それより黄金先輩これから用事があるって言ってましたよね。そっちはいいんですか⁉」
「あ、そうだったぁ~。なんか呼び出しされてたんだった。黄金もう行くから皆頑張ってね~」
思い出したかのように言うと、金魚鉢は両手を振りながら部室を出て行った。
「ほらデータ。早く受け取ってよ」と火野は少し不機嫌そうに言った。
俺はメモリーカードを受け取り掲載する写真を選別するのだが、どれも良く撮れていて俺では選びきれそうもない。
「火野、撮って来たお前に選んでもらいたい。お前の一押しはどれだ?」
「えっ? あ、そうだな~。えーっと……これとか、これとか。あーでも、これも良い表情だと思うんだよね」
火野は何枚もの写真を見て、あれでもないこれでもないと悩んでいた。
「う~ん……。あっ、ごめん。さっと決めろって思ったよね……?」
確かに早く決めてくれとは思ったが、そこは写真を撮った人間の意見を尊重するべきだろう。
「写真に関しては俺よりお前の方がセンスあるんだから、自分の納得するものを選べばいい。まだ時間がかかりそうなら俺は別の仕事してるから、その間に決めといてくれ。火野が選んだものなら俺も文句は言わない」
そう告げると火野は少し驚いた表情を浮かべた。
「えっ、うん……。ありがと」
火野は隣の湊土と顔を見合わせ笑っていた。
同好会の皆は俺に責任はないと言っていたが俺にはそうは思えなかった。今回ばかりは俺の軽率な行動があの高飛車女を追い込んでしまったのだ。だからとにかく俺が頑張らないといけない。俺は気を引き締め直して仕事に取り掛かった。
学校に許可を取って午後八時まで部活を続けていたが、それでも時間が足りない。俺は仕事を持ち帰ってなんとか締め切りに間に合わせようとした。
時々、強烈な眠気に襲われるが眠気覚ましのドリンクやコーヒーでそれを何とか抑え込んでいた。しかしそれも限界のようでふとした瞬間に意識が飛ぶ。眠気覚ましのドリンクもコーヒーも飲み干してしまい、もうストックがない。時計を見ると今は深夜一時。
俺は軽い運動がてら眠気を覚ますためにコンビニに向かった。
コンビニには俺の他に客はおらず、店員も裏に引っ込んでいるのか見当たらない。蛍光灯の白い灯りが目に染みた。
買うもの買ってさっさと帰ろう。まだ仕事の続きをやらなくてはならない。
ピントの合わない目をこすり買い物かごに栄養ドリンクやコーヒー、気休め程度にはなるだろう刺激性のガムを放り込んで会計を済ませコンビニを出た。
少しだけ冷たい風。それを受けると若干意識がハッキリとした。
締め切りまでのあと六日。部長と美空が停学になり勢いだけでイマガクを作ると宣言したが、なんとか形にすることが出来そうだ。もうひと頑張りで全てが報われる。そう思うとまだまだ頑張れる気がした。
「よし、まだいける。ここを乗り越えれば大丈夫だ」
俺は独り言ちて歩き出すと視界に一人の女が入った。その女の恰好は十月というのにやたら薄着だった。そのくせ「寒い寒い」と呟いている。
寒いならもっと厚着しろよとつい言いたくなってしまう。ただ、見知らぬ人間にそんなことを言えば、頭がおかしいと思われてしまうので言わないが。と、そんなどうでもいい考えが頭を巡っていると、俺はいつの間にかその女を凝視してしまっていた。
俺の視線に気付いたのか女も俺の方に視線を向けた。
……………………。
「はあ? なにしてんだよ……お前」
つい声が出てしまった。だが決して俺の頭がおかしくなった訳ではない。
だってその女だと思っていたのは……。
「ハ、ハル……?」
それは土生湊土だった。
「な、なんでこんな時間に……もしかしてまだ仕事してたの?」
湊土は少し驚いた表情を見せたが、何事もないように普通の会話を始める。しかし言葉とは裏腹に手はひっきりなしに動いている。俺にはそれが自分の服装を誤魔化そうとしているように見えた。
「さ、寒いね。昼間は暖かかったのに夜になるともう結構冷えるんだね。あはは……」
別に湊土の趣味や趣向に文句をつけるつもりもなければ、そんな資格が俺にある訳でもない。
でもなんなだよお前は……。
「ハルが思ってることはわかってるよ。この恰好でしょ? はあ、参ったな……。この時間だから大丈夫と思って油断しちゃった……」
この忙しくて大変な時にそんな恰好で深夜に出歩いて、お前は何がしたいんだよ?
俺がこれだけ必死こいて頑張ってるってのに……眠気覚ましのコーヒーやガムを大量に買ってる俺を、ただ仕事した気になってるだけの馬鹿だって言いたいのかよ?
「……いい加減にしろよ」
「ご、ごめん……。でもこれはねっ」
「いい加減にしろって言ってんだよっ‼」
感情に任せて大声を上げて俺はその場から走り去った。湊土の呼び止める声が聞こえたが、それを無視して俺は走り続けた。
その日の夜は、もう明けないのかと思えるほど長く感じた。
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