第5話「家に帰ろう」

 リビングのドアを開けると、俺の帰宅を待っていたかのようにドアに顔を向けている母と目が合った。


「おかえり。……あんたその髪。どこで切ったの?」


 いつもはもっと短くしているから文句を言うのも理解できる。実際俺自身もこの髪型は納得していない。


「いつものところ?」

「いいや。たまたま見つけた美容室」


 別に俺が悪い訳じゃない。あの女美容師が悪いんだ。だから堂々と言ってやった。なんて返すかと思っていたら母は「ふーん。今っぽくていいじゃん」と笑う。

 意外にもこの髪型を母は気に入ったらしい。


「服はちゃんと買ったの?」


 俺は買ったよと手に持った紙袋を掲げた。


「どんなの買ったのか、ちょっと着てみせてよ」

「は? 嫌だよ。面倒くさい」


 本当に面倒なのと、あのピッタリした服を見せるのが恥ずかしかったので俺は断る。だがそこは俺の母だ。「本当に買ってきた? 見せないんなら余ったお金返して」と言いやがった。少しでも借金返済に充てたいのでこの金は返したくない。俺は仕方なく買ってきた服に着替える。


「ほら、ちゃんと買ったよ」


 全身ピッタリの服を着て親に見せるなんてただの凌辱だろ。俺はせめてもの抵抗で元から着ていたシャツを羽織って母に見せた。


「ふーん。なんか普通に今っぽくて面白くない。あんたならもっとオッサンみたいな服買って来るかと思ったのに」


 そう言い母は手に持ったスマホをテーブルに置き、つまらなさそうにした。また俺の写真を撮って笑い物にしようとしていたのだろうか。

 それにしてもこれが今っぽくて普通の格好なのか? ファッションは本当によくわからない。


「もういい? 部屋に戻るよ?」


 俺が訊くと母はしっしっと手で払った。少しイラっとしたが今日は久しぶりに外に出て疲れたしとにかく眠たかったので黙って部屋に戻る。

 フラフラとおぼつかない足で俺の部屋に入り、電気も付けずにベッドに倒れ込んだ。

 ドガッ‼


「痛ぁっ!」


 フカフカの布団が俺を包み込んでくれはずだった。しかし俺を包み込んでいるのは、どういうことは固い固いフローリング。


「ベッドは⁉」


 上体を起こして俺はキョロキョロと部屋を見渡すが真っ暗でよく見えない。目を凝らし徐々に暗闇に目が慣れてくると部屋の異変に気が付いた。

 ベッドどころか机もパソコンも本棚もなにもない。そこはただの空っぽの空間だった。


「ちょっと。俺の部屋なにもないんだけど⁉」


 リビングへ行くと母は爪にやすりをかけていた。動揺する俺に向かい指にふっと息をかけ爪の粉を飛ばす。


「送っといたよ」

「どこに⁉ いつ⁉」

「お爺ちゃんのとこ。あんたが髪切ってる間」

「なんで⁉」


 母はやすりを置いて俺の目を見る。


「あんたがなんで引きこもってたか知らないけど、そんなに今の学校に行きたくないなら別の高校に行けばいいんじゃないかって思って。お爺ちゃんに相談したらお爺ちゃんの家の近くに高校があったの思い出してね。で、あんたは夏休み明けからそこに通うことになったから。言わなかったっけ?」

「聞いてない!」

「じゃあ今言った。あはははっ」


 あっけらかんと笑う母に怒りが込み上げる。


「あはははじゃねーよ!」

「うるさいなー。べつにいいじゃない。あんた高校受験で忙しいとか言って、もう何年もお爺ちゃんの家に行ってないでしょ。だからたまにはお爺ちゃんお婆ちゃん孝行してきなさいよ」


 祖父の家。母の実家は同じ県内でここから車で一時間ほどの距離にある。別にこの家から出ること自体はそんなに気にしちゃいないが、正直、今の俺はあまり祖父に会いたくなかった。祖父の言葉を守っていたのに俺は傷付いた。そんな祖父とどんな顔をして会えばいいのかわからない。小さい頃から大好きな祖父に嫌な態度を取ってしまうんじゃないかと。


「で、でも……」

「は? でも? はあ?」


 口ごもる俺に母はまくしたてる。


「あんたが引きこもってる間、私はずーっと働いてたのよ。いつか出て来ると思ってたけど一向に出てきやしない。いくら高校生だからってうちに引きニートは要らないの。嫌だったら私のところで働きなさい。雑巾のようにこき使ってやるわよ!」


 それだけは勘弁だ。この母の下で働くなんて想像しただけで胃が痛くなる。


「……わかった」

「そう、案外聞き分け良いのね。それじゃついでに、今後私は元日を甘やかさないって決めたから」

「あっそう。別に今までも甘えさせてもらったとも思ってないけど……」


 俺がボソッと言うと母はこれに激しく反応した。


「へえ~、そんな可愛くないこと言うんだ。なら学費はあんたが自分で出しなさい。転校する前に一括で払った二〇〇万と転校先の三年間の学費、それからその他諸々の費用全部あんたが出しなさい」

「そ、それは……」

「なに? 結局私に甘えるの? 口ばっかり達者で何も出来ないのね。ダッサい!」


 呆れたと母は再び爪の手入れを始める。

 くそ、勝手に転校を決めといてなに言ってんだ。だがこのまま母に言いたい放題言われていいのか? 俺はもう誰にも媚び諂わないと決めたじゃないか。こんなあっさりと負けていいのか?


「わかったよ! 学費でもなんでも全部、自分で出してやるよ! 俺は絶対に負けねーからな!」


 これは母との決別だ。俺は母に断言しドアを強く閉めリビングを後にする。体じゅうを熱いナニかが包み込むような感じがした。


「費用は全部込み込みで一千万ね。甘えないように期限も高校卒業までってことでよろしく」


 リビングから顔だけ出す母は軽い口調で言う。

 一千万? 高校卒業までに?

 感じていたはずの熱いナニかは嘘のようにどこかへ消えていた。

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