第4話「家から飛び出そう」
久しぶりに風呂に入るとなんとも言えない爽やかな気分になった。いつもなら大汗をかいている季節なのに今日はなんだか涼しく感じ、街の人混みも気にならない。
さてと、まずは散髪だけどどこの店で切ってもらおうかな。などと頭の中で考えていると後ろから声を掛けられた。
「すいませーん。いま時間ありますか?」
振り返ると奇抜な髪の色をした女が立っていた。
今までの俺であれば相手を不快にさせないように愛想よく返事をしていただろう。しかし覚醒した俺はもうそんな軟弱ではない。
俺は返事もせず女を無視して歩き始めた。
「ちょ、ちょっと。待ってよお兄さん」
誰がお兄さんだ。どう見たって俺の方が年下だろ。
女は俺を追いかけ更に声を掛けてきた。
「私すぐそこで美容師やってるんだけど、お兄さんカットモデルになってくれない? もちろんお金は貰わないよ。タダだよ。無料」
カットモデル? なんだかよくわからないが、こんな道端でいきなり声を掛けてくる女なんてろくなものではないだろう。俺は早く髪を切る店を探さないといけないんだ。
ん? この女いま無料と言ったか?
「あ、止まってくれた。オッケーってことだね、やった」
女が促すままに俺は近くのビルの二階にあるヘアサロンへついて行き椅子に座った。
小奇麗な店ではあるがなんだか落ち着かない。その理由はすぐにわかった。いつもの店と違いこの店は客と客の間に仕切りがない。いつもは個室で切ってもらってたからな。それに加えて窓に面したこの席は道路を歩く人たちから見える場所だ。いつもと違う環境で落ち着かないのも当然だな。
「お待たせしましたー。一応カットモデルってことだから、髪型はこっちの好きにさせてもらうけど大丈夫?」
髪型にこだわりなんてないし好きにすればいい。今までも髪型にリクエストしたことなんてないしな。
俺が頷くと女は笑顔で頷き返した。
「大丈夫。絶対カッコよくなるから任せて」
自信ありげに言うと女は俺の髪をべたべたと触り始めた。あまりいい気はしないが無料でやってくれるのならこれくらいは我慢しよう。それに寝不足が続いていたから今はとんでもなく眠たい。寝ている間に全て終わっててくれ。
「――お兄さん。お兄さん。終わりましたよ。頭流すからこっちに移動してもらえる?」
あ、もう終わったんだ。本当に寝ている間に終わったな。
髪を洗ってもう一度最初の席に座らされてドライヤーをあてられる。その時ふと鏡を見る。なんだこれ?
たいして変わってないじゃないか。
「これで終わり?」
「ん? この後ワックスつけてセットするよ」
いや、そうじゃない。
「あまり変わってない」
「えー、そんなことないよ。襟足はスッキリさせたし、全体も梳いてかなり軽くしたよ」
まあ、確かに頭は軽くなったように感じるが問題はそこではなく長さだ。散髪といえばとにかく短くすることが目的だろう。これだと店に入った時とほとんど変わらないぞ。
セットすればわかるからと女は言うがそうは思えない。やはり無料という言葉には気を付けなければいけなかった。これじゃもう一度散髪しないといけない。だが時間も金も勿体ない。
勉強代だと思うことにしよう……無料だけど。
「よしセット完了。お疲れさまでしたー」
やっと終わったか。店の時計を見ると店に入ってから二時間も経過していた。これから服も買わないといけない。さっさと店を出よう。
俺が店の出口へ向かおうとすると女が引き止める。
「ちょっと待ってよ。写真撮らせて」
写真? 面倒だが断って押し問答になるのも嫌なので引き受けるか。店の壁を背にして何枚か撮られたがその間、俺はさっさと終われと言わんばかりにレンズを睨んでやった。
「はいこれで最後。……ありがとー。凄いねお兄さん表情つくってモデルの経験あるの?」
何言ってんだ。ただ睨んでただけだろ。どこまでおめでたい女なんだ。もういい、早くここから去って服を買いに行こう。
「ありがとうねー。もしよかったらまた来てねー」
店を出た俺を見送りながら女はそう言った。
こんな切ったか切ってないかわからないような店二度と来るか。今回は無料だったからいいけど、金払ってこれなら暴れてたぞ。
さあ次は服だ。髪もそうだが俺は服にも関心がない。いま着てる服だって母が勝手に買ってきたものを着ているだけだ。歩きながらいくつかの洋服屋があったが正直どれでもいい。安ければ安いほどいい。流石に洋服は無料とはいかないだろうからな。
それにしてもさっきからすれ違う人間が俺を見ている気がする。よく考えれば外に出るの二か月以上ぶりだ。ちょっと人に酔った感じもする。
次に見つけた洋服屋でいいや。とにかく早く家に帰りたい。
洋服屋はすぐにあった。店内に入り服を物色するが何を買えばいいのかわからない。どれも同じに見える。やはりここは安い物を適当に選ぶのがいいよな。
服を手にとって値札を見ては戻すを繰り返していたら店員が声を掛けてきた。
「どのようなものをお探しですか?」
また女かと思ったが早く帰りたかったので仕方なく対応する。もちろん愛想よくなんてしない。
「安いやつ」
「……で、でしたら、こちらにあるアイテムは全て三十パーセントオフでお買い得ですよ。いま着てられるようなオーバーサイズのものもあるので、ぜひ見てください」
オーバーサイズ? ブカブカってことだろ。全身が映った鏡を見て、自分はなんてだらしない格好をしているんだろうと情けなくなる。そんな俺にわざとらしい皮肉を言いやがって、さっきの美容師の女といいこいつといい……本当に人を不快にさせる。
「いや。普通にぴったりとした服がいい」
そう俺がハッキリと注文すると女は「これなんかは細いですよ」と上下の洋服を手渡した。なんでもよかった俺はじゃあこれくださいとそのまま女に洋服を返した。
「えっと……試着はされなくて大丈夫ですか?」
そうか。この女は母ではない。俺の服のサイズなんて知らないんだったな。試着するしかないか。
試着室に入り服を着替えるんだけど、改めて手に取ったこの服。小さすぎないか? 上も下も俺が着てた服の半分くらいしかないぞ。いくら俺のサイズを知らないと言ってもこれはないだろ。呆れてため息すら出てこない。
着替えてみたがやはり明らかにサイズがおかしい。上は肌着のようでズボンに至ってはほぼ足の太さと同じで、まるでタイツのようにピッタリとしている。こんな格好で外を歩いた日にはすぐに通報されてしまうんじゃないのか?
「サイズはいかがでしょうか?」
外に待機していた女が訊いてきたので、俺は皮肉を込めてこう言ってやった。
「ああ、本当にピッタリだ。上も下も」
数秒沈黙した後、女は「開けますね」と試着室のカーテンを開く。
いや、ちょっと待てよ。こんな全身タイツみたいな格好見られたくないんだけどっ!
きゃっ。俺は咄嗟になぜか胸元を隠してしまう。
「お似合いですよ。上はお客様が着てたシャツを合わせるのもいいと思います」
女は笑顔でお世辞を言う。わかったから、これ買うから早く閉めろよ。恥ずかしい。
「ありがとうございましたー」
洋服屋を出た俺は深い深いため息を吐いた。
散髪して服買っただけなのにとんでもなく疲れた。さっさと帰って今日は早く寝よう。
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