第57話 とある日の午後

 机で書き物をしていたユディルは、うーんと伸びをした。手紙の返事を書き終わったのだ。

 エヴァイスの妻として、徐々に付き合いの範囲も広がってきた。男には男の付き合いがあるように、女にも女の付き合いというものがある。特に、結婚して妻となれば、必然的に増えるというもの。


「あとは、明日のお茶会のことで、相談ごとが……っと」


 ユディルは立ち上がり階下へ向かった。

 国王陛下の在位三十五周年記念式典も終わり、リーヒベルク公爵家の屋敷に戻ったユディルは、小規模の茶会を催すようになっていた。貴族夫人同士のお付き合いも妻の大切な仕事である。


 執事と家政頭と打ち合わせをしたユディルはふと窓の外を見た。

 今日もよい天気だ。ずっと室内に籠っていたから、少し近所を歩いて気分転換もよさそうだ。


(そういえばエヴァイスったら、ずいぶんと大人しいわね)


 気配が無いからすっかり忘れていた。貰った手紙やカードの返事を書くから、と部屋から閉め出したのだ。こっちにも妻の仕事があるのである。


 彼は今どこにいるのだろう。書斎で仕事だろうか。

 だが、足を延ばしてみてもそこはもぬけの殻だった。

 ふむ、と思案してユディルは階下へ向かった。こういう天気の良い日はサロンでのんびりするのも気持ちの良いものだ。


「エヴァイス」


 扉を開けると、案の定椅子の背もたれから彼の金色の髪の毛が見えた。

 ユディルはそっと近づいた。本でも読んで熱中しているのかもしれない。声を掛けても振り返らないとは珍しいこともあるものだ。


「エヴァ……」


(あらら、珍しいこともあるのね)


 なんと、エヴァイスは眠っていた。椅子に体を預け、すうすうと寝息を立てている。

 手には本を持っている。開きっぱなしになっているから、読書をしていて眠くなったのだろう。無理もない。日当たりの良いサロンはぽかぽかと暖かい。眠気を誘わて当然だ。


 ユディルはしげしげと夫を見下ろした。

 そういえば、彼の寝顔を見るのは初めてかもしれない。


 毎日一緒に眠っているとはいえ、エヴァイスのほうがユディルよりも早く起きる。

 そもそも、ユディルが寝坊してしまうのは彼に原因があるのだが。主に、寝かせてくれないという点で。彼も同じように夜更かししているのに、体力の違いなのかいつもユディルよりも早く起きてしまう。


 そういうわけで、エヴァイスの寝顔はとても貴重だということに思い至る。

 ユディルは腰をかがめ、視線を低くした。

 せっかくなのだから、エヴァイスの寝顔をじっくりと眺めてみたい。


(悔しいけれど、かっこいい顔しているのよねえ……。まつげ長いなあ。寝顔が彫刻みたいなのってどうなの。どうして、無駄に顔がいいわけ?)


 心の声は最終的に言いがかりになってしまった。

 普段見られない代わりに今日はじっくり観察してしまった。

 そして、彼のこういうところを見ることができるのも、妻になった証なのだな、と考えて一人で顔を赤くした。少しは乙女な思考回路も持ち合わせているらしい。


 でも、いくら暖かいとはいえ、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。

 何か上に掛けるものを持ってこようと思い離れようとしたその時。

 腕を掴まれた。


「残念。目覚めの口付けはしてくれないの?」

「エヴァイス! 起きていたの⁉」

 心底驚いたユディルは場違いなほど大きな声を出してしまった。


「もちろん」

「なによ、寝たふりをしていたってわけ?」

「最初は本気で眠っていたよ。でも側で名前を呼ばれて覚醒した。私がきみの声に反応しないはずがないだろう?」


 エヴァイスは機嫌よく笑いながらユディルを引き寄せ、そのまま膝の上に乗せてしまう。

 一方、膝の上に乗せられたユディルは、むうっと眉を寄せた。


「起きたのなら、そう言ってほしいわ」

「寝たふりをしていたら口付けてくれるかなって」

「なっ……」

「待っていたのに。出て行こうとするから」

「風邪を引いたらいけないと思ったのよ」 

 ユディルはそばを離れようとした目的を付け足す。


「掛けるものよりも、きみの体温で温めてほしいけど」

「あなたね……」

 ユディルを抱きしめるエヴァイスの腕の力がぎゅっと強まった。


「もう手紙の返事書きは終わった?」

 エヴァイスがユディルのうなじに唇を押し当てながら尋ねてきた。


「ええ」

「じゃあいちゃいちゃできるね」

「っ……ん」

 こちらを抱きしめる手が妖しげにうごめき始める。声にも艶やかさが乗った。


「……もうっ。これからお散歩に行こうと思ったのよ」

「散歩か。もしかして、誘いに来てくれた?」

「さっきは……その、部屋から追い出しちゃったわけだし」


 ユディルだって、ほんの少しは良心がとがめたのだ。ちょっと冷たくし過ぎてしまったかな、と。

 集中して作業をしたおかげで、色々と片付いたため、追い出したお詫びも兼ねて彼と過ごそうと思ったのだ。


「せっかくめずらしく気温も高いし、外を歩きたいわ」

「じゃあ二人で公園に行こうか。それとも河沿いを歩く?」

「わたし、アイスクリームが食べたいわ」


 ルーヴェ市内を流れる河沿いにはカフェがいくつかあり、テラス席に座ってアイスクリームを食べるのが若い女性たちの間で流行っているのである。特にルーヴェ大聖堂の尖塔が見えるカフェは人気のスポットだ。


「ユディは食いしん坊だなあ」

「む。そんなことないもの」

「じゃあキャラメルソースかけはやめておく?」

「それは……」


 バニラアイスクリームの上にとろりとかけられたキャラメルソース。それから苦いコーヒーという組み合わせ。いくらでも食べられる。


「じゃあ準備をしようか」


 二人で笑い合いながら急な予定を決めるのもとても楽しくて。

 結局悩みに悩んでアイスクリームの上にキャラメルソースをかけてもらったのだった。

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