第50話 夫は妻と男装プレイをお望みです2
列車の登場により物流の速度が格段に速くなった。その恩恵を受けるのは食卓も同じで、本日の夕食は鹿肉だった。パイで包んだ鹿肉はほどよいピンク色で、とても美味しかった。公爵家の料理人はとても腕がよく、毎日の食事が楽しみだったりする。
晩餐を美味しくいただき、ちょうどよい具合にお腹も一杯になったユディルはさっそく夫と勝負をすることにする。
エヴァイスは食後酒を片手に優雅に一人用の椅子に座り足を組んでいる。
対面に座ったユディルはその様になり過ぎている姿に内心腹を立てた。
(どうしてただ座っているだけでこんなにも様になるのよ……。世の中不公平だわ)
断じて夫に見惚れているわけではない。つややかすぎてつい視界に捉えてしまうというわけではない。
「じゃあ、始めようか」
二人が座る間には小さなテーブルが置かれている。その上に
陣取り遊戯はどちらかというと男の子が好むもので、対戦相手を欲していた兄アルフィオがユディルに教えてくれたのだ。もちろん兄は容赦なくユディルを負かしにかかった。こういうとき、年長者というのは容赦が無かったりする。ユディルは半べそをかきながら何度も再試合を申し出た。そして負けるということを繰り返すうちに徐々に強くなっていった。
「どっちが先攻?」
「ユディに譲るよ」
「余裕じゃない」
「そんなことないよ」
エヴァイスは形よく口の端を持ち上げた。
「じゃあわたしからスタートするわよ」
ユディルは余裕顔の夫を負かすつもりで勝負に挑んだ。
結果。
「うううう~。もう一回」
一度目も二度目も負けてしまった。
こうなると意地になる。絶対に夫に勝ってやる、と息巻きユディルは再勝負を挑む。
「どうしてエヴァイスは負けないのよ」
「そりゃあ大学時代に鍛えたから」
「わたしだってお兄様と一緒にやり込んだのよ。宮殿でもたまにオルドシュカ様のお相手をしていたし」
「学生の勝負はえげつないよ。飯代や酒代がかかっているから。人の勝負の行方が賭けの対象になっていることもあるし。そうなると両者とも譲れないしね。結果どんどん腕が上がっていった」
「なによ、それ。聞いていない!」
「ユディ、勝負っていうものは自分の得意なものでするものだよ」
エヴァイスは爽やかに微笑んだ。
その笑顔がいまは忌々しい。けれども、こちらにだって矜持というものがある。
次こそは、と息巻いて臨んだ第三回戦はというと。
やはりというかぼろ負けした。
「んもうっ! 悔しいっ‼」
遊びとはいえ負けは負け。悔しいものは悔しい。ユディルは大きな声を出した。
「エヴァイス、もう一回」
「私はいいけれど……。いいの?」
「何がよ」
「勝負に勝ったら聞くというお願い事。今の対戦でユディは三回分、私に対して貸しがあるんだよ」
「えっ‼ 一回分じゃないの⁉」
「まさか。勝負一回に付き一つだよね」
エヴァイスはさらりと言ってのけた。それはもう、とても良い笑顔だった。
「嘘でしょ⁉」
「残念ながら本当」
ユディルのやる気がしおれていく。現時点でユディルは三回エヴァイスに負け越している。いや、次こそは。次こそは勝てるかもしれない。
「いいわ。もう一度。もう一度勝負よ」
「きみが負けたら四回私のお願い事を聞くんだよ?」
「わたしが勝ったら今までの三回分のお願い事をチャラにしてもらうってことにするわ」
「まあ……いいよ」
エヴァイスは少し思案した後了承した。
おそらく、こちらが勝てば問題なしとでも思っているのだろう。
ユディルだって今度こそ勝ちに行く。
その意気込みで臨んだ勝負だったが、結局は今度も負けた。完敗だった。
さすがに子供ではないから盤遊戯に負けたくらいで涙が零れるということはないけれど本気で悔しかった。この男には苦手なものは無いのか。
「あなたって……腹が立つほど何でも出来ちゃうのね。苦手な物ってないの?」
「あるよ」
「ほんとう?」
「まあね」
エヴァイスはふわりと微笑んだ。
「さて、勝負に負けたのだから、分かっているよね」
「う……」
エヴァイスはユディルを正面からまっすぐに見つめた。にっこり笑みを向けられて、ユディルは悔しかったが、最終的には頷いた。勝負は勝負だ。
「じゃあ明日の昼に着てもらおうかな」
「え、今じゃないの?」
「もう夜だし。せっかくだから明るい日中にきみの男装姿を堪能したい」
「……女に二言は無いわ」
悔しいが負けは負け。ユディルは顔を少しだけ横に向けながら観念した声を出した。
翌日、エヴァイスは朝から上機嫌だった。
反対にユディルの心はどんよりとしていた。なにが悲しくて夫に己の男装姿を見せないといけないのか。しかも彼は今日一日何の予定もいれていないのだという。彼の中でどれだけユディルの男装を念入りに計画していたのか、知りたくもないが考えると背筋がぞわりとした。
屋敷の若奥様が男物の衣服に着替えるという倒錯的なプレイに使用人たちは何も言わない。それがものすごく居たたまれない。
全世界に向かって叫びたい。これはわたしの趣味ではありません。夫が変態なだけです、と。しかし、リーヒベルク公爵家の若様が変態なことが世間に知られるのも困る。
前回の男装はオルドシュカのためにと思えばこそのことだった。それに、事情を知っている宮殿仕えの侍女たちが着替えを手伝ってくれたこともあり、心はもっと軽かった。
いまは、完全に旦那様の趣味である。
ユディルは室内着を脱ぐところまでは侍女に手伝ってもらったが、それ以後は彼女らを下がらせ、自分一人で男物の衣服を身につけていった。
人生二度目の男装に心が乾いていく。あれからフランチェスカからの再リクエストだって断っているというのに。
あらかた着替えたユディルは隣の部屋へと赴いた。
「着替えた……わよ」
ユディルはものすごく恥ずかしかった。
顔を赤らめて夫に声を掛けると、彼がこちらに視線をやった。
「あ、あんまりジロジロ見ないで頂戴」
「ユディ、ものすごく可愛い」
「男の格好が可愛いだなんて、理解に苦しむわ」
エヴァイスは即座にユディルの側へと近寄り、正面から抱きしめるように両腕で彼女を捕まえる。
ユディルはとてつもなく恥ずかしくて、普段よりも余計につんけんした態度をとってしまう。
「男装をしているユディが可愛い。これは……なんていうか、新しい扉を開けてしまいそうだね」
「何の扉?」
そんなもの永遠に閉じっぱなしでいてほしい。
「あ、クラヴァットはつけないの?」
「結び方が分からなくて」
「じゃあ私がやってあげるよ」
エヴァイスは一度ユディルから離れてクラヴァットをとってきた。それをユディルの首元に巻いて、くるくると手際よく形を整えていく。
「さすが、慣れているのね」
「まあね」
ユディルは夫の手際の良さに感心した。せっかくだからと鏡で己の姿を見る。前回は騎士服だったけれど、今回は普通の男性服だ。上流階級の男性が夜会で着るような上着とベストとトラウザーズ。ほんの少し肩から伸びかけた髪の毛とどこからどう見ても女性な面差しが妙にアンバランスだった。
「可愛いな。今日は一日、私の秘書をしてもらうか」
「それが二番目のお願い?」
昨日のゲームで負けた回数は四回。エヴァイスがユディルにできるお願いはこの男装を除いてあと三回。
「うーん……そうだなあ」
エヴァイスは思案気な声を出す。
「あ、秘書っていっても、この格好のまま外へ出るとかはなしよ! 恥ずかしすぎて死ねる自信があるわ!」
「ユディの可愛い男装姿を他の人間に見せる気はないからそれは大丈夫」
即座にいい笑顔が返ってきた。
「じゃあ……」
「きみはこの部屋だけで私の秘書になって」
「それが二回目のお願い?」
「そうだね」
ユディルが念を押すと、エヴァイスは微苦笑を漏らした。
「わかったわ! じゃあ張り切って秘書をやるわ。何をしたらいいの?」
二回目のお願いがあっさり決まってユディルはがぜんやる気になった。こういうことはさっさとやり切るに限る。この調子でいけば三回目、四回目のお願い事も今日中に片付くかもしれない。
「なにって。可愛い秘書さんがすることといえば一つだろう?」
エヴァイスはユディルの手を取り、己の口元へと持って行った。
指先に唇が落とされて、それからぺろりと舐められる。
ユディルの背筋がぞくりと粟立つ。
夫の台詞の先を聞きたくない。
「可愛い可愛い私専属の秘書を、今日一日かけてたっぷりと愛でてあげる」
「ちょっと待って……。秘書って普通そういうのが仕事じゃないわよね⁉」
このままだと今すぐにでも食べられちゃいそうな雰囲気に、ユディルは慌てた。結婚をして早数か月。朝から風呂で抱かれたこともあったけれど、ユディルは過激な子作り行為はご遠慮願いたい派だ。
「わたしは、ちゃんと秘書っぽいことがしたいわ!」
ちゃっかりユディルの背中に腕を回して、彼女を逃げられないように固定していたエヴァイスは妻のささやかな抵抗に、口を開く。
「……じゃあ、まずは」
エヴァイスはユディルを横抱きにした。
「ドレスじゃないと運ぶのも楽だね。あと、触れる感触がダイレクトでやらしい」
「言い方!」
エヴァイスは上機嫌ですたすたと歩きだし、書斎へと向かい、大きな書き物机の前にある椅子に腰を落とした。必然的にユディルもエヴァイスの膝の上に座ることになった。
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