第48話 アニエスの独り言 後編

「あなた、改めてすごい家に嫁いだのねえ」

 つい感心してそんな言葉が漏れた。

「さすがにわたしだって毎日この部屋で食事をしているわけではないわよ」

「ああでも、ユディは宮殿勤めをしていたから豪華な部屋には慣れているわよね」

「そうねえ。ああいう豪華な宮殿は見慣れすぎるとなんとも思わなくなるのよ」

「その境地に達してみたいわ」


 男爵家の妻のため、アニエスにとってルーヴェ・ハウデ宮殿はそれなりに敷居が高い。年に数度社交シーズンの時に訪れるという感覚だ。その宮殿でユディルはつい最近まで女官をしていた。おてんば娘に宮殿勤めが務まるのかと最初はアニエスも例にもれずに心配をしまくったのだが、彼女は最初こそ苦労していたが、すぐに慣れていった。元々明るい性格で誰とでもすぐに打ち解けるため自分で居場所を確保していった。アニエスはユディルの世界が広がっていくのが眩しくて、そしてほんの少しだけさみしくなった。


 夕食のメニューは前菜の冷たい皿に始まり、スープと魚料理。口直しにリンゴのソルベが提供をされ、肉料理は赤ぶどう酒でじっくりと煮込まれた牛肉。口の中にいれるとほろりととろけ、じゅわりとうまみがあふれ出す。


(ん、うま……)

 じっくりと煮込まれているため、赤ぶどう酒のソースもコクがある。アニエスは今日何度目かになるさすがはリーヒベルク公爵家という言葉を心の中でつぶやいた。


「美味しいわね」

「よかったぁ。口に合って」

 アニエスが素直に称賛するとユディルはホッとしたかのように眉尻を下げた。

「公爵家の料理が口に合わない人なんていないでしょうよ」


 ルーヴェの高級料理店にも引けを取らない味だと思う。現に夫は最初の緊張から立ち直ると開き直ったのか料理を堪能することにしたようだ。それはもうふくふくとした面持ちで料理を平らげている。


「デザートは『つぐみ屋』のケーキなのよ。楽しみにしていてね」

 ルーヴェ随一の人気菓子店の名前を出されて、アニエスは「じゃあお腹をちゃんと開けておかないと」とユディルと笑い合う。


「しばらく食べられなくなるから楽しみだわ」

「アニエス、ピスタチオのケーキ好きでしょう。あれとね、キャラメルのタルトなの」

「やだユディ、天使」

「そりゃあ大好きなアニエスの好きなものくらいちゃんと把握済みよ」


 つぐみ屋のケーキはどれも美味しくてアニエスも贔屓にしている。ユディルはアニエスのお気に入りを覚えていてくれたのだ。彼女が宮殿勤めを辞めたあと、遊びに来る時に手土産で何度か持参した。


「ユディもお気に入りの店なんだろう?」

「まあ、そうね」

「何なら今度店ごと買い取ろうか?」


 エヴァイスはとろとろに甘い視線をユディルに向けた。

 ちょうど肉料理を食べ終えたところで、給仕が皿を下げていく。


「あなたね。そんなことをしたらわたし、つぐみ屋のファンたちから怒られちゃうわ」

「それは困ったね。私はただ可愛い妻を喜ばせたいだけなのに」

「だったら、何もしないで頂戴」


 まったく、とユディルがエヴァイスを諫める。

 ちょうどそのときデザートが運ばれてきた。ちょうどよい大きさのケーキが二種盛られ、クリームとソースが添えられている。


 ピスタチオのムースは濃厚で、領地へ帰ると暖かいのはいいけれど、このケーキとしばらくお別れなのだと思うと寂しくもある。


「アニエスともしばらくお別れかあ。寂しいなあ」

「なによ。今までは仕事が忙しいって碌に相手もしてくれなかったのに」

「それは……。ほら、オルドシュカ様のご出産で慌ただしかったから」

「女官は主優先なことくらい承知よ」

「だから女官を辞めて、なんだか暇なのよね」


 ユディルがため息をつくと、エヴァイスがすかさず「暇なら私のことを構い倒せばいいだろう?」と会話に加わる。


「あなただってそれなりに忙しいでしょうが」

 しかしユディルはそうも簡単にエヴァイスの手には乗らない。

「きみのためなら陛下の招集にだって居留守を使うよ」

「絶対にやめて」

「いっそのこと田舎に引き籠ろうか。きみと二人きりで永遠に」

「いや」


 ユディルが即座に拒否をする。どこか顔を青くしているところからさっするに似たような目に遭ったことがあるのかもしれない。


 アニエスは突如始まった夫婦のやり取りにぽかんとした。

 これまでの二人からは想像もつかないくらいに空気が甘くなっている。なにより、ユディルがエヴァイスに対してつんけんしていない。これは驚くべき変化だ。意地っ張りな部分が鳴りを潜めている。


「私はどこでもきみとなら楽しめるけれどね」

「じゃあルーヴェでいいじゃない」

「ルーヴェだときみを独占できないじゃないか」

「わたしにもわたしの付き合いってものがあるのよ」

「領地へ戻ったら本館ではなくて別館に泊まろうかと思っているんだ。本館は父上たちがいてうるさいだろうから。夫婦水入らず、新婚気分を満喫しようね」

「ちょっと、それ今ここで言うことなの⁉」


 顔を赤くしたユディルに対してエヴァイスはとくに顔色を変えることなく平常運転だ。


(いや、まあ分かってはいたけれど……ユディに対して遠慮しなくなったエヴァイスは最強ね)


 なにしろエヴァイスは昔からかなりわかりやすくユディルにだけ贔屓をしていたからだ。

 それでもここまでののろけを見せつけられると目のやり場に困る。現に夫は無の境地に達したかのように目を虚ろにさせている。


 こちとら結婚して約二年。新婚の甘酸っぱい空気など忘れて久しい。


(ついでに言うなら甘すぎよ! こんな空気にわたしたちじゃなれっこないわ!)


 アニエスのキャラ的にも無理だ。

 いや、すごいなエヴァイス。よくもここまで方針転換したものだ。いや、昔も可愛い子猫の威嚇を楽しむ飼い主的な感じでユディルを構い倒していたけれど。


 デザートも会話の内容も甘くて、いささか食傷気味だ。

 ちくしょう。せっかくのつぐみ屋のケーキなのに。

 アニエスは苦いコーヒーのありがたさをひしひしと感じた。


 デザートを食べ終わると別室に移動をしてのんびり食後の団欒のひと時へと移る。


 普通は男性と女性に分かれてそれぞれ談笑と相成るのだが、今日は全員が同じ部屋にて椅子に座っている。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜ、ユディルとアニエスの前には暖かなお茶が用意されている。


「ゴドルフ卿、食後酒はいかがですか?」

「え、ああ。いただきます」


 エヴァイスが用意したのは南部地方で蒸留されている甘口のぶどう酒だった。どこか見覚えのある瓶のラベルは、もしかしなくてもゴドルフ男爵領で生産されているものだった。

 夫は無言で感激をしていた。


(女子か! この気遣い)


 夫が腹黒エヴァイスにハートを鷲掴みにされている。

 エヴァイスがゴドルフ男爵領産のぶどう酒をほめちぎるから、夫の瞳がうるうるとし始めた。長年の片思いの相手に、自分の気持ちが伝わっていた時の乙女のような反応に、アニエスは若干乾いた視線を送ってしまった。ちょろすぎるだろう、うちの夫。そんな心境だ。


 エヴァイスの気遣いにハートを鷲掴みされた夫はそれからエヴァイスと経済談義に花を咲かせ、当初の緊張がうそのように饒舌になった。

 アニエスもユディルと心置きなく話すことが出来て満足した。


 互いに貴族の家に嫁いだのだから、昔のように気安く互いの家を行き来できない。領地に帰っている間は長いこと離れることになるわけで、ちょっぴり寂しい。


 とはいえ、また来年になれば会えるのだし、もしかしたらその頃にはおめでたい報せが舞い込んできそうでもある。せっかくだからうちも二人目つくっちゃう、などと思うくらいにはアニエスも少し浮かれている。


 友人と同い年の子供がいるって楽しいに決まっている。

 なんだかんだと楽しい食事会で、エヴァイスにすっかり心酔してしまった夫が帰りの馬車でエヴァイスのことを褒めちぎるから、アニエスはそれってどこのエヴァイスだよ、と突っ込んでしまったのは内緒だ。


 あののろけって絶対にわたしに対する牽制も含まれているよね、と昔からライバル視されてきたアニエスとしては穿ってしまうのである。

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