第47話 アニエスの独り言 前編
国王の在位三十五周年を祝う式典はお祭り騒ぎだった。
ルーヴェの街は例年になく盛り上がり、とても活気づいた。元々お祭り好きな気質を持つフラデニア人である。アニエスもその一人として大いに楽しんだ。
さて、その式典も終わってしまった晩秋のルーヴェはどこかもの寂しい雰囲気に包まれている。アニエスも付き合いのある家から何通か手紙を貰った。年末に向けて領地へ帰るという報せだ。
アニエスの夫は男爵だが領地はルーヴェからはとても遠い。どちらかというと南の隣国であるカルーニャの方が近いほどだ。その分冬場は温暖なのがありがたい。
アニエスが領地へ引き籠る前に一度食事でも、とユディルから手紙を貰ったのは十日ほど前のこと。リーヒベルク公爵家からの正式な招待だ。とはいえ、招待客はアニエスとその夫のみというとてもカジュアルな食事会。招待状こそ格式ばった文言で飾られているが、これを届けに来たユディルは「とっても気楽な食事会だから普通の格好で来てね」とへらへらと笑っていた。
幼なじみの言葉ほど信用してはいけない。
アニエスと夫は公爵家の招待に相応しい服装で屋敷を訪れた。アニエスは何度かリーヒベルク邸を訪れているから慣れているけれど、夫はこれが初めてだ。馬車の中からすでに彼は緊張をしていた。
アニエスに向かって「きみの友達、もうちょっと普通の家に嫁げなかったの? いや、だってリーヒベルク公爵家だよ。僕、今から口から心臓が飛び出……うぅ……」とか呻いていた。
小心者の夫は妻の友人が公爵家に嫁いだことによって発生する今後のお付き合いに今から胃をきりきりさせている。野心家の夫ならばここはむしろチャンスだとばかりに自分の売り込みに走るのだろうけれど、夫は商売の才能はあっても雲の上のお人への免疫があまりない。普段から商売人とばかり付き合っているからこうなるのだ。
「ほら、しっかりなさい。仕方ないでしょう、エヴァイスの粘り勝ちだったんだから」
「え、粘り……?」
「いいの。独り言。深く追求したら駄目」
そんな風にやり合っていると馬車はリーヒベルク公爵家へと到着をした。
出迎えてくれた家人に外套を預け、食堂の前室へ案内をされる。すぐに発泡酒と突き出しとしてオイル漬けのオリーブの実や香草と合わせたクリームチーズの乗った固焼きのビスケットなどが供される。少しだけピンク色をした発砲ぶどう酒だ。よい味をしている。さすがは公爵家である。
隣では夫が明らかに場に圧倒されている。
「もう。しっかりなさい! いいこと、ユディとはこれからもお付き合いしていくんだからね。そうするともれなくあのエヴァイスも付いてくるの。わかった?」
結婚をして二年ほど経つゴドルフ夫妻は、完全にアニエスが夫を尻に敷いている。一応外では夫を立てているのだが、家の中ではこれが通常運転である。
「きみがベランジェ伯爵家のご令嬢と仲が良かったのは知っているけれどさあ……」
なおも泣き言を夫が漏らしていると、扉がトントンと叩かれ、部屋の中にユディルとエヴァイスが入ってきた。
(なにがとっても気楽な会よ。どこが? ユディの嘘つき。ああー、よかった。ちゃんとしたドレス着てきて)
この場合のちゃんとしたドレスはとっておきの晩餐用のドレスのことだ。冬場なので肩回りの露出は控えめだが、ベルベッドの深紅のドレスはこのあいだ届いたばかりの新作だ。
「アニエス~! 今日は来てくれてありがとう」
ユディルは幼なじみの気安さでアニエスに近寄ってきた。立ち上がり女の子同士の気安い距離で挨拶をしつつ、アニエスはユディルの肩にぐわりと腕を回した。
「ちょっと。どの辺が気楽な会よ? 嘘つき。なんなの、そのめちゃくちゃ大層な格好は」
「こ、これは。わたしはそこまでめかしこむつもりじゃなかったのよ。本当よ。だって、ほら、領地に帰っちゃうアニエスと食事をしたかっただけだし」
「それなのに、どうしてこんなにも正装をしているわけ?」
ユディルはそれはもう立派なドレス姿だった。深い緑色のドレスは上品な光沢を放っており、上品に開いた襟ぐりからはダイヤモンドの首飾りが控えめにその存在を主張している。一目で高級品だとわかるドレスにきらきらと輝く宝飾品。なにが気楽な内輪の会だ。
「それはエヴァイスが張り切って……」
「まあそんなことだろうと思ってあんたの言葉を真に受けなかったわたし、えらいわ」
「えへへ……」
「えへへじゃない。ユディはもう公爵家の人間なんだから。たかだか食事会だってこういうことになるのよ」
なにしろ伝統あるリーヒベルク公爵家が主催をする食事会なのだから。
「わたし以外だったら、招待客の方に恥をかかせているんだからね」
「う……すみません」
ユディルはしゅんと肩を落とした。
とはいえ、これはユディルの自覚不足が悪い。アニエスはどうせこういうことになるなと思ったが、うっかり言葉通りに受け取ってしまう純粋無垢な客人だったらどうするわけだったのか。
「相変わらず、仲がいいね。妬けてしまうな」
女同士秘密の話し合いに声を割り込ませたのはユディルの夫であるエヴァイスだ。
アニエスは彼とも面識がある。そしてしょっぱなからアニエスに牽制をしてくるエヴァイスに内心、こいつ変わらないなと呆れた。
夫が慌てて立ち上がった。それからどこか裏返った声を出す。
「本日はお招きいただきありがとうございます。リーヒベルク卿」
「今日はそこまで固い会でもないから気兼ねなく過ごしてください。それこそ、我が家でくつろぐように」
「い、いいえ。そんな」
さわやかな貴公子の微笑みになぜだかアニエスの夫の顔がぼややとのぼせ上る。美形の笑顔は男女ともに有効だということか。なんて恐ろしい。
「わあ。ありがとうございます。しばらくユディとも会えなくなるし、今夜は泊まっていっちゃおうかなぁ。ユディとも積もる話もあるし。一緒に寝台で眠っちゃう? 子供の頃みたいに」
うふふ、と気合の入った余所行きスマイルを顔に張り付けて流暢にエヴァイスを挑発すると、彼は顔を一瞬強張らせた。
「ゴドルフ男爵夫人はいつまでも遊び心を忘れないお人だね。泊まっていくのは構わないけれど、妻は貸さないよ」
「相変わらずですねぇ。リーヒベルク卿は」
「
アニエスとエヴァイスがうふふ、あははと笑い合うたびに前室に冷気が流れていく。
アニエスの夫はおろおろと二人の顔を交互に見やる。この冷気をどうにかしたいと思っても口が出せない。なにしろ怖いので。
「さすがにこの年じゃあ一緒には眠らないわよ。夜更かしして語りつくしたいけれど」
ユディルは二人の言葉に頓着せずにさらりと会話に入った。
アニエスもすぐに切り替え、ユディルの口調に付き合う。
「そうねえ。さすがにいい大人だものね」
「昔はよくやったけれどね。懐かしいわね」
「本当。最初に一緒に眠ったのは六歳の頃だったっけ?」
「五歳じゃなかった?」
「どっちでもいいわよ」
「たしかに」
二人は友人の気安さで笑い合う。
考えれば長い付き合いだ。
エヴァイスは初めて聞く二人の仲の良さに、目を見張り悔しそうに押し黙った。
互いに軽く自己紹介を終えたところで、家人が食堂の準備が整ったと主たちを呼びに来た。
公爵家の晩餐室はそれはもう煌びやかで、さすがのアニエスも圧倒された。
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