第34話 夫の方が一枚上手でした2

「ユディ、こっちが本物のアルフィオからの手紙。読んでごらん」


 ユディルがエヴァイスを仰ぎ見ると、彼はいつもの通り優しい瞳をこちらに向けて、ユディルの手に封筒を握らせる。ユディルは封筒を開けてゆっくりと便箋を開く。目に飛び込んできた文字をそのまま追った。


 手紙には、妹とエヴァイスの結婚への祝福と、こちらもようやく落ち着いたという近況報告が記されてあった。アルフィオは西の隣国ではなく北の隣国ロルテームへ向かっていた。小さな国だが昔から貿易が盛んな国で、王都にはいくつもの運河が流れているという。その地で兄は貿易会社の事務仕事にありついたという。次期伯爵として何不自由なく育てられた兄が人に使われる生活をしているのだ。それもそれで信じられないが、無一文で明日の命も知れないという近況でない分、ユディルはほっと安堵の息を漏らした。


「お兄様、元気でやっているのね」

「もちろん。奥方と仲良く暮らしているそうだよ」

「なら安心ね」

「さて、これできみの懸案事項も解決しただろう? 帰ろうか」

 エヴァイスはユディルを促した。


「待て。おまえ、最初から俺のことをコケにしていたな」

 結果としてエヴァイスの手の平で転がされていたルドルフは顔を赤くしてエヴァイスに近寄った。エヴァイスはユディルを背後に庇い、ルドルフと向かい合う。


「コケにはしていないよ。ただ、おまえは絶対にユディにちょっかいを掛けてくると信じていたからこちらで手を打った。それだけだ。ユディは今日ダングベール子爵夫人と出かけると聞いていたから異変があればすぐに知らせるように人を遣っておいただけだ」

「おまえのほうこそ昔からユディに執着し過ぎだろ」

「私のユディに気安く触れるおまえのことが昔から大嫌いだったよ」


「こいつは俺の従妹だ。どう扱おうと俺の勝手だろ。それに俺の方がユディとは長い付き合いだ」

「これからは私の方が長い付き合いになるし、書類上でもユディは私の妻だ。今後は勝手に話しかけないで貰おうか」

「ちっ。おまえ、リーヒベルク公爵のくせに、その上ベランジェ伯爵の地位も狙っているのかよ」

「私はまだ公爵ではないよ。それに、おまえだってダングベール子爵家の嫡男だろう。そこまでベランジェ伯爵家にこだわる理由もないだろう」

「伯爵の方が子爵よりましだろ」

 あんな取り立てて何かあるわけでもない家の爵位、とルドルフは吐き捨てた。


「そもそも、次の伯爵位についてあれこれ画策する方がおかしい。アルフィオが爵位を継承する可能性だってあるんだ」

「平民とかけおちした男にそんなものあるか!」

「それはおまえが決めることではない。幸いにして義父上、現ベランジェ伯爵はご健勝だ。当然長生きをされるだろうし、その間に息子と和解をする可能性だってある。アルフィオのところに孫が生まれれば態度が軟化することだって考えられる」


 だから、今の内からせっせと根回ししても無駄だよ、とエヴァイスは続けた。

 ユディルもエヴァイスの言葉を聞いて少しだけ肩の荷が下りた気がした。アルフィオのかけおちを聞いて焦った父親に乗せられたのはユディルも同じだったのかもしれない。大変なことになった、と結婚をしたけれど確かにエヴァイスの言う通り未来がどうなるかなんて今の時点では分からない。


 ユディルは知らずに詰めていた呼吸をそっと吐いて微笑み、男同士の会話に口をはさむ。

「そうね。だいたいが孫の顔を見るとほだされるのよね」

「俺の雇った探偵のほうがおまえの雇った人間を騙している可能性だってあるだろ! そうに違いない」

「だったらおまえの雇った探偵に裏を取ろうか。情報を渡したという人間の顔くらいまだ覚えているだろう」

 まだあきらめきれないルドルフをエヴァイスが一蹴した。


「ダングベール卿、あなたが雇った探偵の名前はガイル・クリペエ。ルーヴェ十五区でしがない探偵業を営んでおり、私たちの撒いた餌にまんまと食い付きました。情報提供人の名はエドメ・バリュー。彼は―」

「もういいっ! くそがっ‼」


 秘書官が抑揚もつけず淡々と語り出したのをルドルフが途中で遮った。

 ルドルフはエヴァイスと彼の秘書官を交互に睨んだ。その顔は真っ赤に染まっている。


「そんなにも、そこの赤毛のことが好きなのか? 三年前に振られたくせに」

「振られてなんかいない。双方に誤解があっただけだ」

「俺の言葉を真に受けてユディが髪を切って逃げたときは心底腹の底から嗤ってやったぜ」


 ルドルフが口を歪めるとエヴァイスは目を眇めた。

 ユディルはそういえば王宮舞踏会でルドルフがリーヒベルク公爵家の結婚の申込に付いて何か言いかけていたのを思い出した。


「それは初耳だ」

「おまえがそこの赤毛女に執着しているのは分かっていたからな。リーヒベルク公爵家から縁組の打診があったと母伝手で聞いた俺は一計を案じて伯爵夫妻に言ってやったんだ。どうやら、リーヒベルク公爵が本格的に後添えにユディを見初めたようだって」


 過去に思いを馳せルドルフが愉快そうに口元を緩めた。ユディルは相談する両親の会話を盗み聞きして、結果結婚を嫌がって逃げた。事の顛末を母親経由で聞いたルドルフは当時を思い出しエヴァイスを嗤う。


「結果的に私はユディを手に入れた。おまえではなく、私がね」


 エヴァイスはにこりと笑った。余裕のある態度を見せつけられたルドルフは「俺が本気でそんな跳ねっかえりを相手にするわけがないだろう! 伯爵位込みだから手に入れようとしただけだ!」と言って応接間から出て行った。


 ご丁寧に去り際に「覚えていろ」との捨て台詞まで吐いて。

 応接間に静寂が訪れた。残されたユディルは体から力が抜けて、近くの椅子に座った。

 ユディルはぼんやりと正面を見つめる。


「……今日一日で確実に寿命が縮まったわ……」


 つい零すとエヴァイスがユディルの前に跪く。彼は心配そうにユディルの顔を覗き込み、手を伸ばしてユディルの頬を優しく撫でた。ゆっくりと優しい仕草にユディルの心が徐々に解けていく。温かくてユディルを安心させてくれる大きな手だ。


「だめだよ、きみは私よりも後に死ぬんだ。私を置いていかないでくれ」

「今すぐには死なないわよ」

「老後は海の見える丘の上の屋敷でのんびりと暮らそうか」

「そ、それ。どこから」


 独身街道まっしぐらだったころ、ユディルはよく周囲の人間に零していた。女官の仕事を務めあげたあとは貯めたお金と年金で海の見える丘の上の小さな家を借りてのんびり暮らすのだと。やけっぱちの台詞だったが、まさかエヴァイスの耳に入っているとは知らなかった。


「私はユディのことなら何でも知っているよ。ユディが嫌いなにんじんをこっそりスカートのポケットに入れて屋根裏に隠していたこととか」

 昔の黒歴史をさらりと暴露されたユディルは先ほどとは違う意味で心臓を騒がしくさせた。まさかエヴァイスが知っているとは思わなかった。

「今はそんなことしないもの! ちゃんと食べられるようになったんだから。食卓ににんじん料理をだしてくれてもいいんだからね!」

 ユディルが負けん気を発揮して高らかに宣言をするとエヴァイスは微苦笑しながら「考えておくよ」とユディルの頭を撫でた。


 ユディルは恥ずかしさを押し殺して、ごほんと咳払いをした。

「とにかく。お兄様は今もぴんぴんしているってことでいいのかしら?」

「もちろん。ロルテームで元気に暮らしているよ」


 あそこは貿易国だから外国人も暮らしやすいし、と彼は付け足した。アルフィオの恋人、現妻となった女性は外国人だ。ロルテームは外国人労働者も多く、フラデニアよりも異国人は目立たない。


「それにしてもルドルフの奴。そこまでして伯爵位が欲しいとか……どれだけがめついのよ」


 まんまとルドルフの手の平で転がされてしまったユディルは今更ながらに腹の底から怒りが湧いてきた。騙された自分にも腹が立つし、子爵家の継承権を持ちながら別の爵位を欲しがった業突く張りな心情も理解に苦しむ。


「ユディ」

 エヴァイスはぷんすかと怒るユディルの唇にそっと人差し指を添えた。

「私の前で他の男のことは考えないで」


 エヴァイスは身を起こして、下からユディルの唇を奪った。軽く触れ合う口づけを短い間隔で何度も交わしながら、ユディルはゆっくりと夫の肩に腕を回した。

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