第32話 従兄からの知らせ2
「アルフィオを生かすも殺すもおまえ次第だ。俺の出した条件を呑むなら、アルフィオを助けてやってもいいぜ」
「な……」
ユディルはごくりと息を呑みこむ。完全にルドルフのペースに持って行かれていたが、今のユディルは兄が本当に窮地に陥っているのでは、ということで頭がいっぱいだった。目の前の従兄はアルフィオに恋人がいたことも知っている。ルドルフはベランジェ伯爵兄妹に屈折した感情を抱いてはいるが、アルフィオに対しては年上ということもあり、それなりに遜った態度を取っていた。その分ユディルに対して威張り散らしているのだが。だから、アルフィオがルドルフに手紙を寄越すのもあり得る話なのかもしれない。
ということはアルフィオはルドルフに対して手紙の中でかけおちの話から全部書き記したのだろうか。順を追って説明となればそうなのかもしれないが、一応兄だって伯爵家の長男として教育は受けているはず。その兄があっさり騙されて有り金を失ってしまうものだろうか。
「条件は簡単だ。エヴァイス・リーヒベルクと離婚しろ」
その言葉を聞いた途端全身の血液が逆流を起こしたかのような錯覚をユディルは覚えた。
「な……なんですって」
「アルフィオは駆け落ちをした。爵位よりも女を選んだんだ。そんな奴に爵位を継ぐ資格はないだろ。おまえが慌てて結婚をしたのも、アルフィオのいなくなった埋め合わせ。ベランジェ伯爵家の次を継ぐとしたら、このままだとおまえの産む子供だろうな」
「バルトロメウス叔父様がいらっしゃるわ」
ユディルは間髪入れずにしゃべった。
「ふん。叔父上には子供がいない。俺がその次の伯爵に収まるには、おまえがエヴァイスと結婚をしていると非常に都合が悪い」
ユディルは不機嫌を隠しもしなかった。やはりそうくるか、と思ったからだ。
「どうして俺を指名しなかった。そこは俺だろう」
「あなたと結婚なんて、考えられるはずもないでしょう」
ユディルは即答した。絶対にありえない、と断言すると「俺だっておまえみたいな性格のきつい赤毛女はごめんだ」と言ったからお互い様だ。
「あなたダングベール子爵家の嫡男でしょう」
「しがない子爵家よりもベランジェ伯爵家のほうがいいに決まっているだろう」
「エヴァイスとは結婚をしたばかりなのよ。離婚なんてできるはずもないでしょう」
「だったら、アルフィオがどうなってもいいのか? おまえが
ルドルフが意地の悪い笑みを顔に浮かべる。
結局はここに戻ってしまう。ユディルは焦燥で背中に嫌な汗をかくのを感じた。兄のことは心配だが、エヴァイスと別れるだなんてそんなこと考えられない。ユディルはようやく彼への気持ちを自覚したばかりだ。いつもいじわるな言葉をユディルに言っていたのに結婚した途端甘い言葉を吐くようになったエヴァイスに最初は何か裏があるのでは、と訝しがっていたのに。いつの間にかユディルを見つめるエヴァイスの瞳にほだされていた。軽口をたたき合うのもエヴァイスだからできたこと。
ユディルはぎゅっと目をつむり、それからまっすぐにルドルフを見つめ返した。
「その手紙が本物だという証拠はないわ」
ユディルが固い声を出すと、ルドルフは手紙をテーブルの上に置いた。ユディルはゆっくりとその手紙を手に取って、中を検める。少しざらりとした高級ではない紙の上の文字を辿る。一見すると兄の手蹟の様でもある。手紙には今しがたアドルフがユディルに語ったこととほぼ同じ内容が書かれている。
このままでは路頭に迷うどころか野垂れ死にになってしまうと書かれてあり、ユディルの心がかき乱される。
「たった一人の妹が薄情なせいでアルフィオは異国の地で妻諸共死ぬ羽目になるのか」
ルドルフの追い打ちをかける言葉にユディルの心臓が大きく脈打つ。
今自分が兄の生殺与奪を握っていることがとてつもなく重く感じる。
「お父様に相談をして、今からお兄様を探せば……」
「そんな悠長な時間があるのか?」
ユディルは封筒を裏返した。しかし何も書かれていない。手紙の中にも現在の所在地については触れられていない。
「大事な情報を、おまえに渡すわけないだろ。これは交渉なんだから」
ユディルは悔しくて歯噛みをする。ルドルフにとってこれは確かに取引だ。自分が次のベランジェ伯爵になるという目的の第一歩なのだから。
「……そんなに伯爵になりたいのなら、べつにわたしと結婚をすることもないじゃない」
「いや、リーヒベルク夫人になったおまえが俺の一番の障害物だろう。エヴァイスの奴がしゃしゃり出てきたら、さすがの俺も分が悪いしな」
歴史あるリーヒベルク公爵家がベランジェ伯爵家の後継問題に、縁戚として意見をすれば一定の重みを与えるのは確実だ。ベランジェ伯爵は自分に万が一のことがあったことを想定してユディルと妻を託せるくらいの力を持った男との縁談を望んだ。ルドルフは最終的に誰も候補がいなかったら、というくらいの位置づけだった。
ルドルフにとっては自分がベランジェ伯爵を名乗るためにはリーヒベルク公爵家が一番の障害になることは自明の理。早々に排除しておきたい相手ということだ。
「時間はないぜ」
ユディルは追い詰められた。
先ほどから心臓が早鐘を打っている。自分のせいで兄が路頭に迷ってしまうだなんて。それも異国の地でだ。彼には愛する人もいるというのに。急がないといけないという今の状況がユディルから正常にものごとを判断する能力を削っていく。自分の答え一つで、兄の命運が決まってしまうという状況に指の先が小さく震えた。
兄を助ける条件はただ一つ。ユディルがエヴァイスと離婚をすること。その後確実にルドルフはユディルとの婚姻を迫ってくる。それがベランジェ伯爵を継ぐのに一番の近道だからだ。
ユディルの脳裏にエヴァイスの眼差しが浮かび上がる。
愛おしそうに自分の髪の毛を指で梳く感触がまざまざと思い出され、ユディルはそれを失うことに恐怖を覚える。いつの間にか彼の隣がユディルの居場所だと感じるようになっていた。膝の上に乗せられることに反発を覚えるのに、そっと胸に体を預けると、恥じらいなど嘘のように安心感が身をもたげた。これからもう少し素直になろうと思っていたのに。まだ、彼に好きとも伝えていないのに。
ユディルは目の前の従兄を見やった。おそらくその瞳にはこれまでの力強さはないに違いない。不安気に揺らした瞳は焦点が合わず、ルドルフの顔がぼやけて映っている。
「わ、わたし……」
「今日はベランジェ伯爵家の屋敷へ帰ってもらう。エヴァイスがしゃしゃり出てくる前に一気に片を着けようぜ」
「で、でも」
「アルフィオは今こうしている間にも、大変な目に合っているんだろうなぁ」
ユディルはどきりとした。時間がないのだ。彼が今どこにいるのかは分からないが、いくら列車が走るご時世とはいえ、まだ実用化して間もない列車は開通している箇所が限られているし、外国となればもちろん移動日数は長くなる。
緊迫した個室の扉がかちゃりと開かれた。
二人はハッとして扉の方に顔を向けた。
「ごめんなさいね。ちょっと話し込んじゃって」
何も知らないダングベール夫人がアランを伴って個室へと入ってきた。
ユディルとルドルフは会話を中断し、現れた二人を迎えた。しかしユディルの頭の中はそれどころではなく、作り笑いを浮かべている余裕すらなかった。
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