第29話 ココベラの言い分

「レヴィヨン嬢……。あなた、いまわたしに……」


 ココベラは手にグラスを持っていた。中身は空っぽだ。それはそうだろう。中身は今しがたユディルの頭にぶっかけられたのだから。

 ココベラは激しい怒りを湛えた瞳でユディルを睨みつけている。なるほど、お嬢様は口だけではなく物理的に攻撃を仕掛けてきたようだ。


 彼女はエヴァイスの信奉者だ。それはこれまでの言動で察していた。彼女の父侯爵もまた政治家として国の中枢にいるため今日の夜会に招かれているのだが、ユディルが一人きりになったところを待っていたのかもしれない。

 ユディルは自分の頭に手をやる。あいにくと暗がりで何を掛けられたのかまでは分からないが、お酒の香りが鼻腔まで届いた。


「結婚したことに飽き足らずエヴァイス様を独り占めして……。わたくしは父上にお願いをしていたのに! エヴァイス様のような素敵な紳士はわたくしのようなきちんとした侯爵家の娘にこそふさわしいのに。それを横から掠め取って……」

 ココベラは憎々し気に口から言葉を絞り出す。


(確かに一見人当たりがいいけど、素敵な紳士というより変態よ)


 閨で人の足の指を丁寧に舐めるし。ユディルはつい脳内で突っ込んでしまった。

 大体、あれに付き合えるのはユディルだけだと思う。エヴァイスはとにかく焦らすのが大好きなのだから。


「あなた、目障りだったのよ。いつも宮殿でわたくしたちにエヴァイス様と仲が良いところを見せつけてくれちゃって!」


 精悍な顔立ちで公爵家の嫡男でもあるエヴァイスはよくモテる。令嬢たちからきゃぁきゃぁと騒がれていたことも知っているし、これは起こるべくして起こった通過儀礼のようなもの。粛々と受け入れよう。などと思うほどユディルはお人好しではない。言葉だけの攻撃なら、まあ相手はお嬢さんだし仕方ないかなと思ったかもしれないがいきなり背後から酒を掛けるのはどうなのだ。貴族のお嬢様の嫌がらせはなかなかに攻撃的だった。しかも相当鬱憤がたまっているのか舌鋒が止まない。


「どうしてこんな女がエヴァイス様の妻なのよ。わたくしのほうが断然にきれいなのに。髪だって短くてみっともないし平民のようだわ。もしかして、そのにんじんのように目立つ赤毛を隠したいのかしら」

 一番気にしている髪の毛について言われるとさすがにカチンときた。

「ベランジェ伯爵家へ喧嘩を売っているのなら買うわよ」

「なにを大げさな。たかだか赤毛くらいで喧嘩を売るだの買うだの、野蛮ですわね」


 ココベラは口元を小さく歪めた。あくまでこちらを小ばかにする声色だが、さすがにほぼ面識のない相手に喧嘩の売り買い発言は乱暴だった。


(く、悔しいけど……言い返せない……)


「わたくし、にんじんもあなたのような人間も大嫌いなの。目障りだわ。エヴァイス様の隣をあけてくださらない?」


 優勢に立ったと自信満々に微笑むココベラにユディルは、エヴァイスはユディルの赤毛も好きだと言っていたと言い返そうとしたが、寸前で口から出てくることはなかった。

 それを言うと、まるでユディルがエヴァイスの言葉を気に入っているようにも思えてしまって、自意識過剰になっているのは分かるのだが恥ずかしい。のろけみたいで口に出すことができない。


 ココベラが瞳を意地悪気に細めた時、彼女の背後の開け放たれている室内から人影が現れた。背の高い男性を認めたユディルだったが、背を向けているココベラは当然のことながら気が付かない。


「私はユディもにんじんも大好きだよ。毎日愛でて美味しく食べたいくらいに夢中だ」


 穏やかだけれど、芯の通った声はよく響いた。

 ユディルはきわどい発言に眉を顰めた。それはなんていうか、ここで言うことだろうか。というかいつから聞いていたのだろう。


「エヴァイス様!」

 ココベラの声を無視したエヴァイスはユディルの方へ歩いてくる。

「ユディ、私の目の届かないところに行っては駄目だと言っているのに、きみはかくれんぼが得意だね」


 エヴァイスはユディルの腰に腕を回して引き寄せた。

 それとも二人きりになりたくて待っていたの? なんて耳元でしゃべるからユディルは居たたまれなくなる。エヴァイスは完全に二人きりという体で話しかけている。絶対に分かってやっている。他人に夫婦のじゃれあい(ではないと主張したい)を見られているという羞恥心でユディルの顔が真っ赤に染まるし、体温が急激に上昇していく。


 離して、と身をよじるとエヴァイスの方へ引き寄せられた。ユディルは身の置き場に困ってしまい、顔をうつむかせた。


 居たたまれなくなったのはココベラも同じで、彼女は一度だけエヴァイスを見つめて「わ、わたくしこれで失礼しますわ」と言ってそそくさと建物の内部へ入ってしまった。

 エヴァイスはココベラをちらりと一瞥しただけですぐに興味を失い、ユディルの髪の毛に指を絡めようとするからユディルは慌てて「だめ!」と叫んだ。


「ユディ?」

「ええと。ちょっと、いま頭が濡れていて」

 エヴァイスはユディルの髪の毛をじっと見つめたあと顔を近づけた。

「酒の匂いがする」

「あはは……」


 ユディルは笑ってごまかした。それを観察したエヴァイスは「そういえばあの娘は空のグラスを持っていたね」と低い声を出した。すべてを察した夫はそれから「今から仕返ししてこようか」と怖いことを言う。


「いいわよ、別に」

「どうして? きみへの侮辱は万死に値する」

「あなた、すでにココベラに対して仕返し以上のことをしたと思うわ」

「なにを?」


 エヴァイスは心底分からないという顔でこちらを見つめてきた。

 彼女の淡い気持ちくらいとっくに気づいていそうなものだが、エヴァイスはそれには取り合わずにココベラの前でユディルだけを見つめて一番大切なものとして扱った。間近でエヴァイスの態度を見せつけられたココベラの心情を思うと、なんていうか複雑な気分になってしまう。好きな人が自分にまったく興味も示さず別の誰かを一番に優先をしていたら悲しい気持ちになるだろう。ユディルはつい自分に置き換えて胸を痛ませた。そして置き換えて想像した相手がエヴァイスでユディルは慌てて頭をぶるぶると左右に振る。


「ユディ?」

「わたし、あの子とは宮殿でそれなりに顔を合わすのよ。憧れの人があっさりと別の人と結婚しちゃって、今彼女は感情を持て余しているのよ。確かに喧嘩を売られたけど、今回はわたしの負けだわ」


 なにしろ売り言葉にカッとなってしまったから。赤毛に過剰反応してしまうのはユディルの悪い癖だ。これのおかげでエヴァイスとも散々喧嘩をした。けれども最近はエヴァイスの言葉にはあまり突っかからなくなったと思う。どうしてだろう。昔のユディルならエヴァイスに美味しそうと言われただけでもムカッとしていたと思うのに。今はその中に甘さを見つけてしまっている。


「じゃあ私がユディの仇討ちをしてこようか」

「いや、いいから」


 女同士の諍いに男が口をはさむものではない。それに、これ以上エヴァイスの関心をココベラに向けたくなかった。エヴァイスはユディルを観察して「きみがいいなら」と呟いた。ホッと息を吐き出したユディルはエヴァイスと共に控室へ赴きながら自分の心境の変化に戸惑った。少しずつ、ゆっくりとユディルの中のエヴァイスが変わりつつある。独占欲のようなその気持ちに気が付いたユディルは、エヴァイスに気づかれないようにそっと頬を赤く染めた。

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