第28話 ユディルの心模様

 秘書官が封を切り手紙置きの上に重ねて置いた手紙を読み、エヴァイスは嘆息した。

 手紙には簡潔に『寝言は寝て言え』と書いてある。さすがにこの一文のみではないけれど、エヴァイスのしたためた手紙に対して父である現リーヒベルク公爵はなんとも冷たい返事を寄越してきた。


 父に対してユディルへよもや懸想していないでしょうね、と嫉妬丸出しの文章を書いて送った息子への返信が素っ気なくなるのも無理はない。


 王太子妃殿下の好意により、夏の休暇を王家所有の古城で、最愛の妻と二人きりで過ごすことができたのは僥倖だった。そのときエヴァイスは一度目の求婚時の真相を知った。


(まさか私ではなく父上からの求婚だと思い込んでいたなんてね……。伯爵夫妻までもが勘違いしていたとは……)


 はあ、とため息の一つも吐きたくなる。

 過ぎてしまったこととはいえ、さすがにユディルから何をどう思って宮殿へ逃げたのかを聞かされた時はびっくりした。エヴァイスの父はすでに後添えを貰いのんびりとした生活を送っているとはいえ、当時本当にユディルに対して何の働きかけもしなかったのか、とエヴァイスは気になってしまい文をしたためた。我ながら狭量すぎる夫だと思う。


 ひとまず否定の返事を貰い安心したエヴァイスは父からの手紙を書斎机の上に置き、別の手紙を手に取った。

 文面に目を走らせたエヴァイスは知らずに口の端を持ち上げていた。

 ようやく欲しい返事を貰うことができたからだ。折を見てユディルに話すことになるだろう。それまではエヴァイスの中に留めておく案件だ。


 エヴァイスはその後も秘書の用意した書類を順番に確認をしていき、急ぎの手紙の返事を書き記していった。政治の仕事の傍ら、それなりに雑事に追われているためエヴァイスは忙しい。とはいえ優秀な秘書官のおかげで妻との時間も取ることができているため、今度給料に上乗せをして報奨金を出そうかと頭の端で考える。


 事務連絡事項を書き連ね、部屋の時計を確認した。

 エヴァイスもそろそろ支度をする時間だ。夜会用の衣服に身を包み、髪を撫でつけ階下へ降りていく。しばらくすると侍女を伴いユディルが降りてきた。


 エヴァイスは美しい妻に目を細める。腰回りは細さを強調するようにほっそりとし、しかし胸元は豊かで白い肌の上にはダイヤモンドの首飾りが輝いている。深紅のドレスには同系色の刺繍で美しい花模様が描かれている。ドレスに隠れたユディルの白い肌の上には毎夜エヴァイスが散らした赤い所有印が散っている。男を知った肌は日増しに艶めきエヴァイスに向けて蠱惑的な色香を放っている。


「ユディ」

 エヴァイスは妻に近づき、顔を近づけた。

 すぐにその意図を察したユディルは両手のひらを己の顔の前に持ってきてエヴァイスを遮る。

「だめよ。化粧が崩れちゃう」


 素っ気ない口調のユディルに苦笑し、エヴァイスはそっと彼女の頬に優しく口付けた。このくらいは許してほしい。

 ユディルは今度はエヴァイスを拒絶せずに受け入れてくれた。嬉しくなってそのまま耳の上の方を食む。


「っ……!」

 ユディルが声にならない悲鳴を上げる。

 優秀な使用人たちは屋敷の主人夫妻のやり取りを見て見ぬふりをする。

「エヴァイス!」

 一呼吸おいてユディルが声を張り上げる。少しだけ潤んだ瞳で睨まれても迫力などあったものではない。むしろ誘っているのかと問いたくなる。


「今日のドレスもよく似合っている」

「絶対に変なことしないでよね」

 念を押してくる妻に対してエヴァイスは馬車の中で我慢できるかな、と考えた。





 夏とはいえ陽が沈むころになると幾分風に冷たさが混じる。ユディルの肌を撫でる風は昼間のそれよりも少し冷えており、火照った体にはちょうどいい。

 会場の熱気とダンスで上気した頬を夜風が優しく撫でていく。


 ユディルの耳に広間で奏でられる演奏曲が届く。ゆったりとした曲調のそれに合わせてエヴァイスは今隣国の某貴族の娘と踊っている最中だ。


 社交とは義務のようなものでいくら夫や婚約者といえども同じ人間とばかり踊っているのは失礼にあたる。そういうことはよく分かっているのだが、ユディルの胸には少しだけわだかまりがあった。


(おかしいなぁ。わたし……どうしちゃったんだろう。昔だったら、エヴァイスが誰と踊っていようともなぁんにも気にしなかったのに)


 王宮舞踏会ではエヴァイスはユディル以外とは終ぞ踊ることはなかった。その後招かれた夜会でも、エヴァイスは未婚の令嬢とは踊らずに夜会の主催者の妻だとか年上のご婦人と社交辞令の一環として踊るくらいなものだった。


 先日オルドシュカの茶会で冷やかされた一件でも分かる通り、エヴァイスは舞踏会であってもユディルを特別扱いしている。どうやら自分はそれに慣れてしまったらしい。


 今日訪れている夜会は隣国アルンレイヒの大使夫妻主催のもので、今ユディルが佇む場所はアルンレイヒ大使館の一角のバルコニーだ。さすがに外交を担う政治家でもあるエヴァイスは今回ばかりはきちんと義務を果たさなければならないというわけだ。特に、大使夫人の陰に隠れるようにして紹介されたご令嬢とあらば、断れば失礼に当たる。


 頭ではきちんと理解をしているのに感情の方にわだかまりがあって、ユディルは落ち着かない。あの男が誰と踊ろうともまったく気にしないと強がる自分もいるのに、その指は無意識に耳へと持って行かれる。出かけ間際のエヴァイスのいたずらを思い出してユディルの心臓がとくんと跳ね上がる。ああいう他愛もない触れ合いがとても多くて、最初は慣れなくて大変だったのに。今では素直に受け入れている。変な声を出してしまうからたとえ使用人の前であっても恥ずかしいから駄目だと口を酸っぱくして言い聞かせてもエヴァイスは止めてくれない。とはいえ、最近ではユディルも強く制止をしていないのだから仕方がない。


 スウィニー城で互いのなかにあったわだかまりが溶けていった。

 エヴァイスから好きだと聞かされて、じっと見つめられてユディルはどうしていいのか分からなくなった。好きだと言う割にユディルに対していじわるばかり言っていた気もするのだが、彼曰く全部が愛情表現とのこと。質が悪いと思うのに、強く怒れない自分がいることにも気が付いている。


 ユディルは空を見上げた。

 雲のない空には星が散っている。

 耳に届く音楽が徐々に音を無くしていく。そろそろ一曲終わりそうで、ユディルは中に入ろうかなと考えた。


 頭に冷たい感触を受けたのはそんな時だった。

「ひゃぁっ!」


 なにか液体が頭にぶっかけられた。さすがに驚いてユディルは素っ頓狂な声を出した。上を見上げるが空には星が浮かんでいる。ということは雨ではない。


「王太子妃殿下を味方に付けてエヴァイス様に結婚を迫るだなんて。そのような反則行為を平然とする女にはよくお似合いですわ」


 背中に投げかけられたのは少女特有の高い声だった。

 ユディルは急いで振り返った。そこには着飾ったココベラの姿があった。髪の毛を頭の上でまとめ、きつく巻いて垂らしてある。さわさわとした夜風に巻かれた髪の束がそよりと揺れている。

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