第10話 好きか嫌いかの二者択一

 ユディルは空腹を抱えたままエヴァイスと一緒に馬車に乗って家路につくことになった。

 馬車の中は重たい空気に包まれている。あのあと、オルドシュカは異例の対応をした。迎えに来たエヴァイスを王太子妃の間のすぐ近くの部屋に案内させ、ほんの少しの時間ではあるが、彼女はユディルの擁護のために何の約束も持っていないエヴァイスの前に姿を見せたのだ(それをいうならいくら元王太子妃付き女官とはいえ朝っぱらから妃殿下の元へ逃げ込んだユディルも大概なのだが)。本来ならば有り得ないこと。それだけユディルのことを妃殿下が気に掛けてくれているということでもある。


 王太子妃直々にユディルの昨夜の非礼について弁解をされ、エヴァイスは頭を垂れ夫婦間の問題を宮殿に持ち込んだことに対して謝罪をした。確かに衝動のままにオルドシュカの元に逃げ帰ったのは軽率だった。おかげでエヴァイスが謝ることになってしまったのだから。将来有望視される公爵家の嫡男にさせていいことではないことくらいユディルにだって分かっている。


(あああ、絶対に怒っているわよね……)


 彼の沈黙が怖い。常々喧嘩ばかりだったけれど、彼を本気で困らせたいわけではない。いつものあれはなんていうか、売り言葉に買い言葉というもので。どうしてだか喧嘩に発展するのだけれど、本気で嫌いというわけではない。自分でもよくわかっていない感情だけれど、ユディルはエヴァイスと喧嘩をすることが嫌いではない。


「……また、逃げたのかと思った」

 突然彼が口を開いた。

「え……?」


 今なんて言ったのか。ユディルが問おうとするとエヴァイスは少しだけ切なそうに微笑んだ。初めて見る類の笑い方でユディルの体が固まる。こんな彼の顔は見たことが無かった。いつもの彼は余裕たっぷりで堂々としているのに。


「ユディ、私はきみを逃がすつもりないから」


 エヴァイスはユディルの髪に触れる。真面目な顔をして言われて、ユディルは彼が怒っているのだと感じた。それはそうだ。


「……ごめんなさい。軽率だったわ」


 ユディルは素直に謝った。彼の非ではないのにエヴァイスはオルドシュカに頭を下げたのだし、さぞ不快な思いをしたに決まっている。


「いいや。構わないよ。私から逃げたのではないのなら」

「逃げたというか……びっくりしたというか」

「私のことは嫌い?」

「……」

「沈黙をされると、傷つくから正直に答えてほしいんだけど」


 ユディルは隣に座る青年を見つめた。

 真摯な瞳がユディルを映している。ユディルは落ち着かなくなる。どうしてだろう、いつもの彼と少し違う気がする。ユディルもエヴァイスを見つめ返す。


 好きか嫌いかの二者択一ならば、嫌いではないと答える。いつもユディルに嫌味なことを言ってくるけれど、ユディルはエヴァイスと対等だと思っているし、ぽんぽんと言い合うのも嫌いではない。ルドルフとは違ってエヴァイスはこちらを見下してくることもない。


 ただ、ときおり訳の分からない感情が喉の奥からせりあがってくる。

 他の女性に親切にしているところを見ると、面白くないと感じてしまう。自分にはいじわるばかり言うのにと拗ねたくなる。ユディルがエヴァイスに対して憎まれ口を叩くのは、彼がユディルのことを淑女扱いしてくれないから。


「……たぶん、嫌いではないと思うわ。あなたって嫌味なことを言うけれど、ルドルフと違ってまだ、幾分紳士的だったし」

「きみも負けじと言い返してくるからおあいこだと思うけれど」

「他の子には優しく微笑むのにね」


 つい面白くなくてユディルは焼きもちめいた言葉を発してしまう。人にはいつも素の表情を見せるのに、他の令嬢たちには余所行きの笑顔を見せるから。あの笑顔にみんな騙されている。ユディルにはちっとも優しくないのに。もうちょっと彼が優しかったらユディルだって素直に接することができるのにと思ってしまう。


 エヴァイスはユディルの言葉を聞いて、それからおもむろにユディルのこめかみに口付けた。

 驚いて見上げると彼の瞳と視線が交錯した。なぜだか分からないけれど、胸がどきりとした。きっと驚いたのだ。突然にこんなことをされて。まったく、どれだけ人をからかえば気が済むのだろう。


「私のことが嫌いじゃないのなら、もう離さないから。ユディ」


 突然にそんなことを言われて。

 ユディルはやっぱり初夜で腹に蹴りを入れたことに対して彼は根に持っているのかな、と結論付けた。

それから少しだけ彼と距離を取る。なぜだか、彼の瞳の奥を見てぞわりとした。獲物を狩りとって離さない肉食獣に睨まれた小動物の様な気持ちになったからだ。

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