第42話
キャロルの軽い身体を背負い、エイジは視界の悪い霧の中を只管に走る。
前方に小さな風を常に生成し続けて何とか、木々に衝突しないだけの視界を確保しているが、正直今走っている方向が正しいのかは自信が無い、さっきは完全に方向感覚が乱されていた、滝が落ちる音を頼りに恐らくこちらが最短で霧が溜まるエリアから出られるだろうという予想なのだが。
「もう少しだからな……キャロル、しっかりしてくれよ」
なんとかキャロルの小さな身体を背負ってはいるが、その手に籠る力は無いに等しく、だらりと投げ出されている、そしてそこから未だ流れ出る血。
時折指先がビクンと動いてはいるから、まだ間に合うはずなのだが、こんな状況では聖属性の魔力を流し込んで回復を図ろうにも限界がある。
「…………ッ、…ッ」
キャロルは朧げな意識の中でエイジの声が聞こえてはいたが、それ以上に四肢から伝わる激痛、エイジ程に痛みという物に強くはない彼女にとって、次の瞬間には意識が無くなってもおかしくはない状況だ。
エイジの背中から流れてくる微弱な聖魔術にはありがたくも笑ってしまいそうになるが、実直の問題は腕、そして脚と背中の一部、その内部に感じる異物。
まるで肉体の中をミミズの様な細長い自立意識を持った何かが這いずり回っている。
その不快感たるや今まで経験したどんな汚辱よりも凄まじく、それが取り込まれた際に身体中を拘束した蔦や枝が突き刺さり、そこから引きちぎられたあのモンスターの一部がキャロルの肉体を乗っ取ろうとその根を伸ばす、その下準備の為に蠢いているという事は直ぐに理解できた。
(これが、寄生……最も忌み嫌われる生体の一つ、成程これは酷いわ、気持ち悪さで内臓がひっくり返りそう)
「キャロル、霧を抜けた!おい起きろ!目を開けるんだッ」
極力自分に振動を伝えないように走っていたエイジが、身体をゆっくりと下ろす、露出した岩を背もたれにして力なく項垂れるキャロルに、残る魔力を総動員する勢いで回し、未熟なヒールをかける。
「ギッ……あああああああああああああぁッッッ!!!」
腕の中で、下腿の内部で微細とは言えない、少なくとも指先以上の大きさはあるであろう異物が、急激に治癒していく肉体に反応して激しく暴れまわった。
それは内部から肉を裂き、血管を傷つける。
(痛い痛い痛い痛イタイイタイィイイイイイイッ!)
予期していなかった絶叫にエイジが情けない表情をしながらたじろぐが、しかし渾身のヒールのおかげで致命となりうる出血は、一先ず止める事が出来た。
問題は内部に侵入されたモンスターの一部をどうするかだが。
「エイジ……ン、離れて、な……い」
最早視界すら霞んできた、ここで取れる最善の方法は一つだけ。
キャロルは覚悟を決めた、一体どんなことになるのか想像は容易にできる、確実に失神、もしかしたらそのまま頭が焼き切れるかもしれないが、まだ少しだけ残る手の感触を確かめる。
使い慣れた杖は置いてきてしまった、しかし右手の親指にはめられた指輪は火属性の魔術と相性がいい赤石を装飾に使っている魔術発動媒体だ、それに魔力を込める。
『浄化の篝火』
血で汚れる事など全く意に介さずにキャロルの意識を繋ごうとしていたエイジだったが、突然キャロルの身体が大きく震えたと思ったら、彼女の全身が油でも撒かれたかのように炎上した。
あまりの事に掴んでいた肩を離してしまう。
「―――――――――――――――ッ!!!」
浄化の篝火は基本的に術者や、指定した相手を延焼させる魔術ではない、あくまでも自身にとって害になる存在、先程の場合だと空気中に含まれる毒性、少し加減を工夫すれば老廃物や身体についた汚れなどを指定して燃やす、そういった日常生活にも使える魔術だ。
エイジは突然の発火に驚いただけで欠片も熱を感じてはいないだろうが、キャロルの全身、主に両腕と両足、それに腰の一部を重点的に浄化の炎を燃やす。
身体に侵入された枝、モンスターはこうなっては除去は不可能だ、周囲の肉や血などを栄養に大きくなっていくだけ、ならば纏めて内側から焼いてしまうしかない、浄化の篝火ならばそれも可能だ。
キャロルの耳を劈く絶叫が響く。
炎自体には何の問題も無い、体内に侵入している枝や蔦の一部を燃やすことも順調だ、しかし火に反応し、身体の中で暴れまわられる、その激痛たるやキャロルの覚悟はしていたが想像を絶するものだった。
肉を内側から滅茶苦茶にかき回される激痛、炎自体に術者を傷付ける効果は無いのだがそれによって燃えた枝が熱を持っているのだろうか、文字通り焼けるように痛い。
近くで、いや遠くだろうか、自分の事を呼ぶエイジの声が聞こえるような気がする。
左腕に侵入した物が一番大きくしぶとく、それをもう二度と動き出さない位消し炭にするまでに要した時間は一分にも満たなかっただろうが、キャロルの人生で一番長い一分だったのは確かだ、永久にも思える激痛の中では気絶する事も許されないんだという事を理解したキャロルは、浄化の炎が消え去った後に、一度、小さく笑った。
「キャロル?」
彼女の四肢が燃え上がり、のた打ち回ることも出来ずにただ言葉にならない叫びをあげるだけのキャロルが、何をしているのかは直ぐに分かったエイジだったが、その感覚、その気持ち、ただ耐えるしか出来ない、気が狂いそうになる時間をただ我慢するしかない、そのことは痛い程理解できる。
「………フ、ふふッ」
「おい、大丈夫なのかよ、その……」
「………大丈夫よ、あたしを誰だと思ってるの……意外と頭の中はスッキリしてる、わ」
「それは、悪い意味で一周回っちまっただけだ、無理はするな」
顔面蒼白ながらも無理して笑おうとするキャロル、どうやら無事の様だが、両腕は力なく投げ出されたままで、なんとかして足に力を入れようとしているのだろうが、それも覚束ない。
「歩け、そうにはないな」
「おぶってちょうだい……今度はあまり揺らさないでね」
エイジも魔力と共に体力も途切れそうになっているのだが、弱った女の子にそんな事を言われては男を見せないわけにはいかない、先程と同じ様に一度抱えてから背負う事にするが。
突如空気が一変した、飛沫から来る霧が効果を及ぼす範囲は超えた筈なのに、足元を、冷たい空気が撫でた。
「やっぱり、先に行きなさいな……直ぐに追いかけるから」
「冗談を言うな、それだけは出来ない」
「冗談じゃないわ!このままだったら逃げ切れるか分からないのよ!今だったらエイジ君だけは確実に逃げられるの!」
「断る、何度も言わせるな!」
辛うじて動かせる頭でエイジの背中を叩くキャロル、そんな事は意に介さず、水っぽい空気が流れてくる木々の向こうを真っ直ぐ見据える、そしてヒュッと音が聞こえた瞬間にキャロルを背負ったまま後方に大きく跳んだ
そして太い蔓が一本、触手のようにうねりながら、鞭で叩きつけるかのようにエイジが立っていた場所を打つ。
木の影からヌッと顔を出したのは例の血の色に桃色の斑点模様の妖花。
しかし光盾を挟んで対峙していた時と違い、その花の咲いている高さはエイジの目線と同じくらいだった。
「追ってくるとは思ったけどよ、お前歩けたのかよ……」
「逃げなさい、エイジ君!お願いだから逃げて!」
花に続いて身体も出てくる……そう、身体だ。
枝や蔦、根が集まって形成されていた太い幹の様な物では無く、意味はそのまま身体だった、手が二本あり、二本の足で立っている、植物が人間の身体を真似ているのだ。
その身体つきは細く、植物で出来ているにも関わらず、女性の身体を模している事が解かってしまう、加えて背中や肩の部分からカーテンの様に地面に向け垂らされている蔦が、まるで今背負っている彼女が身に着けているローブの様に見える。
(キャロルを、真似ている!?つまり少なからず知性がある、高位のモンスター)
妖花が一歩踏み出した。
それは歩いたというよりは、腿を持ち上げ下ろすという動作をしただけで、実際は地を這う根の上をスライドするようにして動いただけなのだが、その不気味さはエイジの背筋を冷たくするには十分だった。
光盾を展開させ、エイジは岩の陰にキャロルを下ろした、未だ騒がしく文句を言ってくるが聞く耳持たない。
この子を置いていくという選択肢だけは。
「大丈夫だ、待ってろ……それか逃げられるんなら這ってでも逃げてくれ」
エイジは再び妖花と向き合う、心臓が二度大きく振えた気がした。
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