第6話

 崩れ去った壁の向こうは、まさに暗闇だった。

 あれ程頭の中をぐちゃぐちゃにしていた負の思考は壁画の崩壊と共に、一瞬で鳴りを潜め、いつも通りに静かな広間には、崩れた石が転がる音だけしか聞こえない。


 エイジは茫然といった表情で、その暗闇を見ていた。

 大切な物だった、勿論エイジの物では無いのだが、アレッサンドルと過ごした日々と同じくらいに、希望の祈りすら捧げていた、宝物だったのに。

 痛む足を気にせず立ち上がる、さっき転んだときに強く打ち付けたのだろうか、ふらつく足取りで、小さな祭壇に足をかける。


 壇上に登り近寄ってみても、ぽっかりと空いた大穴の奥は只管の闇、まるで壁画がその空間を断絶していたかのように、今も不可視の壁が溢れ出ようとする暗闇を押し留めているかのように。


「あぁ……あ…………」


 エイジは混乱状態のまま、その暗闇へとゆっくり手を伸ばした、無限に広がっているやもしれないその内を確認したくて、その向こうから何かが呼んでいる気がして、甘美な誘惑に耐え切れないまま。


 バシィッッ


「うわぁ!」


 エイジの指先がその闇に触れた途端だ、一瞬だが鋭い痛みを感じた、それに全身を電流の様に駆け巡る刺激、全身の毛が寒気立ち微睡の中にあったような意識が、瞬時に覚醒する。

 そしてエイジが触れた個所を中心に、空間一枚隔てた先の闇が、まるで生き物の様にうねり、散る様に逃げて行った、逃げたとしか形容できない不気味な光景だった、常世の者ではない何かに触れてしまったかのような不安と不快をエイジは感じるが。


「これは、部屋?こんな物が、あったなんて」


 闇が逃げて広間の青白い光が差し込み、奥の様子が少しだけ視認できる、どうやら円形の小さな部屋の様だ、要所の細工はドーム型の広間と似たような作りになっているが、この小部屋はより精巧というかまるで完成した当時から時間が止まっていたかのように、真新しいそんな印象を受ける、そして何より目を引くものが一つ。


「………剣?」


 部屋の床、その中心には赤黒い光を発する魔法陣が敷かれ、その真ん中に突き立てられているのは一振りの剣、そして部屋の四方からはその剣に向けて豪華な細工の施された鎖が伸び、剣の刀身や持ち手に雁字搦めといった具合に巻き付き、弛まぬ拘束が成されている。


『求めよ』

「誰だ!?」


 不意に聞こえた声にエイジは周囲を改めて見渡すが、動くものの気配はない、闇も今はその形を潜めている、その声は暗い感情に圧し潰されそうになった時に聞こえたものと同じ様に感じた、その時よりもはっきりと、近い場所から、聞こえた。


『求めよ』


 エイジは視線を小部屋の奥へ戻した、鎖に拘束された剣をじっと見る。

 まさか……、とは思う、そんな可能性を考えるなら自分の頭がおかしくなったか、幻聴か、どこかに誰かが隠れている可能性の方が、よほど現実味がある。


 しかしだ、一度脳裏を過ぎった事が、中々振りほどけない、エイジは生唾を呑み、意を決してその小部屋へと一歩、足を踏み入れた。


 その瞬間に部屋の四方の壁、鎖が伸びる箇所の近くに掛けられた松明に、一斉の明かりが灯ったのだ、突然の明るさに目が眩む、そしてギシギシと金属が擦り合うような音が聞こえる。

 突然の事に二の足踏めずのエイジだったが、部屋の中心で、まるで封印されているかのような剣から、何かを訴えかけるような視線を感じたのだ。

 そしてさらにもう一歩、エイジの革製のブーツの爪先が赤黒い魔法陣に触れた途端。


「お、うあああぁあああ!?」


 赤黒い光がその輝きを一層に強める、一体どんな魔術なのか、エイジが村長宅の書庫で読んだどの書物にも、似通った事すら書かれていなかった。

 剣を中心に何処から発生しているのか凄まじい風が吹き荒れる、魔法陣はその色をより強め松明の明かりなぞ上書きする程の発光だ、四方の鎖はそれらに煽られ金属特有の悲鳴を響かせている。


(目を、開けていられない、でも何か……僕を呼んでいる)


 近くにも遠くにも感じられるその呼び声は、小部屋の荒れと共に大きく、強くなっていく、その声が聞こえてくる方向に向け手を伸ばしたのは、エイジの意思かそれとも無意識での行動だったのか。


『憎悪を心に宿し者 非業と理不尽を認めぬ者よ 丈に合わぬ事と知り 尚求めるならば 悦びの詩を共に叫ぼう 惨劇と喜劇を共に演じよう 我こそが天上天下唯一つ 復讐の別銘にて歓喜の真理 叫べ 我が名を』


「あぁ、あ………あああああ、が、ぐぁああああああああああ!」


 エイジの指先が鎖に触れた、そしてガラス細工で出来ていたかのように、ピンと張っていた四本の豪華な鎖は粉々に砕け散った。

 エイジは叫ぶ、またあの真っ暗な感情が次々と浮かんでは心に溶けて消えてゆく、それが得も言われぬ喜びと快楽を脳内に作り出し、この世全ての境目が曖昧になっていく、部屋の隅から逃げ出したはずの闇がその貌を覗かせる、段々とエイジは闇に堕ちていった。



 意識が戻った時には、エイジは小部屋の中心に座っていた、地を思わせる赤黒く光っていた魔法陣は跡形も無く消え失せ、四方の松明は煙すら上げていない、壁画のあった入り口から青白い光だけが部屋の中を薄く照らしていた。




 ※※※




「ほら!あったじゃねぇか!」

「本当にあるとは、秘密の入り口、隠し通路ってとこか?しかしなんだってこんな山の中に」

「たまにはテメェの耳も役に立つじゃぁねぇか、でかしたぜ」

「ったく、調子いい事しか言わねぇんだからよぉ、兎に角誰かしら逃げ込んでるのは間違いないぜ、見ろ、足跡だ……新しそうだぜ」


 岩肌の隠された亀裂、その中を覗き込んでいるのは三人の小汚い男達だ。

 彼らは蜉蝣かげろうの団の下っ端の下っ端、遊撃部隊長と共にこんな辺鄙な田舎まで連れてこられた挙句、与えられた任務は逃げた者がいた場合の対処、つまるところただの予備、作戦を万全に期すための補助、当然村内を直接襲撃した奴らと違って、金品や金目の物をくすねる事も出来なければ、適当な村娘を襲う事だってできやしない、彼らにとってなんの旨味も無い仕事に就かされていた。


「この足跡、大人にしては小さい気がするぜ、子供か……女か!」

「へへっ、何のためにこんなド田舎まで来たのかと思ってたら、ツキが回ってきたんじゃねぇか」

「まぁいいさ、早く行こうや、この奥が行き止まりになってるとも限らねぇ、どっかに通じてるんだったらさっさと捕まえなきゃな」

「女だったらその場で輪わしちまおうぜ」

「まだわかんねぇだろうが、へへっ」

「男でも子供だったら俺にくれよな」

「変態めぇ、勝手にしろや」


 悪党な盗賊としてはまさにテンプレートといった会話をしながら男たち三人は、石段を急ぎ足で駆け降りる、そして辿り着いた先はドーム型の開けた空間。


「なんだぁ此処は、不気味な所だ」

「天井の石も光ってるぜ、階段の所のやつといい天然物の魔石とはな、結構な金になりそうじゃねぇか」

「静かにしろ、まだ奥がある」


 盗賊の一人が祭壇の上を指さした途端、その奥の暗闇からカタンと、小さな物音がしたことに三人共が気付いた、流石下っ端とはいえ荒事に慣れた人間なのだろう、一斉にナイフや手斧を構え警戒の態勢をとった。


「誰……?」


 続いて聞こえてきた声に男達は警戒を一段階下げた、どう聞いてもまだ子供の男の声だったからだ、そしてそっと闇の中に浮かび上がった顔はまだ幼さの残った線の細いながらも悪くない造形、エイジがゆっくりと小部屋の中から出てきた。


「へへっ、そんなとこに逃げ込んでたのかい?」

「中々可愛いじゃねぇか、おじさんが遊んであげようか」


「一応聞いておくけど、貴方たちは村を襲った奴らの仲間……なんだよね」

「だったらどうしたよ、まぁ南方じゃぁよくある事さ、運が無かったと思って諦めな」

「そう、じゃぁ」


「なんの憂いも無い、報いを受けろ芥共!」


 その強い言葉で盗賊達は気付いた、その少年の手に握られている物に、その刀身は背後の暗闇に紛れて分かり辛かったが、そいつは確かに剣を持っているのだ。


「粋がってんじゃねぇぞ袋のネズミがぁ、大人しくしてりゃぁ変態のおもちゃとして生かしといてやるってのに」

「そんな物騒なもん捨てちまいな、楽しもうぜぇ、ぎゃはははは!」


 三人のうち一人が、ナイフ片手に壇上まで登ってきた、恰幅の良い巨漢だ。

 その巨体だ、一見ひ弱そうな印象のエイジなら一発脅かすだけで十分だと考えたのだろうか、その剣に警戒しつつもエイジへ手を伸ばした。


「ぎゃははは…はは……は?あれ」

「僕に触るんじゃねぇよクズ」


 最初にカランと、男が持っていたナイフが落ちた、そしてその巨体がゆっくりと仰向けに倒れはじめる、倒れきる前に幅の広い腹に横一閃、赤い筋が入ったのが後ろの男二人にも見え、後ろ向きに倒れた男の身体が祭壇の上から転がり落ちた。

 上半身だけが転がり落ちてきた。


「絶対に許さない、許されない、全員きっちり殺してやるから覚悟しろ!」




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