過ぎ去りし時
「だめだ……おれやっぱ船はだめだ……」
閑散とした船室の長椅子に横たわり、マサは青息吐息で呟いた。血の気のない顔、生気のない目で、呆然と船室の天井を見つめている。
外洋を進んでいるとは言え、本土と離島を結ぶ連絡船はほとんど揺れていない。他の乗客も平気な顔をしているのに、マサだけが船酔いにやられていた。
苦しむマサの様子を、フジはニヤニヤしながら観察している。
「やられてるなあマサ。飛行機は平気なのかよ」
おれはそう言うフジの腕を軽く肘で小突いた。
「何言ってんだよフジ。四年前、飛行機に乗っておまえとリョウを迎えに行ったろ。四人一緒に帰って来たじゃねえかよ」
フジは「ああ……」と言いながら頷いた。
「そうか……そうだったな。あれから、もう四年も経つのか」
フジは懐かしそうに呟いた。
そう。
あの年末、大学生だったおれたちが海を渡ってから、もう四年の月日が流れていた。ビールとナシゴレンの味、南国の潮の香り、シボレーのスキッド音が、まるで昨日の事のようにまざまざと記憶に蘇ってくる。
フジはさっきから時計ばかり気にしていた。連絡船内は禁煙だ。早く煙草が吸いたくてたまらないのだ。
マサが弱々しい声を出しながら体を起こそうとする。
「ああ……お茶がなくなった……」
フジがマサの肩を押さえて制止しながら首を振る。
「いいよマサ、そのまま寝てな。おれが買って来てやるから」
フジが立ち上がり、船室の端にある自販機に向かって歩いていった。
おれはフジの後姿を見つめる。
一見普通に見えるが、よく見ればやはりほんの少し、右足を引き摺るようにして歩いているのがわかる。
あの時のケガ、そしてその後の無理がたたって、右足の骨が少し曲がってくっついてしまっているらしい。
フジが自販機で缶入りのお茶を買い、おれたちのほうに戻ってくる。
おれの視線に気付いたフジが言った。
「どうした、タカ。おれのケツに見とれてたのか?」
マサに缶を渡しながら、フジがおれに向かって腰を振る。
「まあな」
おれが笑ってそう答えると、フジは背伸びするように、おれの背後に向かって声をかけた。
「おい、タカは大丈夫なのか? 今、おれのケツに見とれてたらしいぜ……これはちょっと問題あるだろ」
おれの肩に、背後から乗せられる手。と同時に、手の主から発せられる、聞き慣れた甘い声。
「フジのおしりに? ほんと?」
船尾にあるデッキから船室に戻って来たカナは、おれの隣に座りながらフジに向かって眉を上げた。いつもの睨むような目つきでおれの顔を覗き込む。
「フジのおしりのほうがいいの? あたしのおしりよりも?」
「まさか。おまえのおしりのほうが断然いいよ」
おれが真面目な顔をしてそう言うと、フジとカナが揃って吹き出した。
カナが首を左右に振りながら苦笑する。
「相変わらずだね、あんたたち三人。久し振りのトリオ漫才もいいけどさ、降りる準備したほうがいいんじゃない? そろそろ入港だよ」
出港してから今まで、カナは船室にはほとんどいなかった。デッキに出て子供のように目を輝かせ、遠くに見える島や、船に近付いてくるカモメを眺めていた。
「もう見えたか?」
おれはカナに訊いた。
「うん。緑が濃くて、きれいな島だよ。まだ五月なのに、夏の色合い」
「夏の色合い、か。さすがイラスト学科卒」
「まあね」
カナは笑った。
船がゆっくりと港に入り、おれたちは他の乗客たちと一緒にタラップを降りた。マサ以外の三人は楽器のケースを肩に担いでいる。着替えは最小限。ただでさえ荷物になる楽器の事を考えたら、他の物を持つ気にならなかった。
港の岸壁に立つと、カナのいう通り、まるで真夏のような原色の色彩感に包まれる。空と海、木々や空気までが、眩しく輝くようだ。熱く、しかし乾いた爽やかな風が、シャギーを入れたカナの髪を涼しげにそよがせながら通り過ぎていく。
港の出口を見ると、島の木々にも似た濃いグリーンに塗られたバンが停まっていた。車のそばに立つ長身の男が、こちらに向かって手を振っている。
リョウだ。おれたちはリョウに向かって手を振りかえした。
四年ぶりに会うリョウは、東京にいた頃とは随分変わっていた。
強い癖毛の髪は相変わらずだが、昔よりも少し短い。色白だった肌は小麦色に灼け、今のほうが数段健康的だ。スカイブルーのTシャツの袖を肩まで捲り上げ、膝の辺りで切った色あせたジーンズをはき、足元はオレンジ色のビーチサンダルだ。
「ようこそ、みんな。歓迎するよ」
リョウはおれたちの背中を叩きながら、おれたちの荷物を、バンの後部座席に入れていく。
「カナ、久し振りだな。しーちゃんやマキは元気か?」
カナはニッコリと笑って頷いた。
「うん、元気だよ。二人とも仕事の都合で来られなかったの。リョウとトモちゃんによろしく、って」
カナはそう言ったあと、改めてリョウの姿を、頭の先から足元まで見て言った。
「リョウ、元気そうだね」
リョウは笑った。
「ああ、元気だよ。おかげ様でね」
フジがリョウの背中をパンと叩いた。
「久し振りだな。おれらは何とか休みが取れたもんでね。厄介になりに来た」
フジも、カナと同じようにリョウをしげしげと眺める。
「本当に元気そうだ。島の水が合ってるんだな。活き活きしてるよ」
「そうかもな。さあ、乗ってくれ。トモが首を長くして待ってる」
リョウはおれたちをバンに乗せると、運転席に乗り込んでエンジンをスタートさせた。
リョウの運転で、海沿いの道をひた走る。開けた窓から車内に吹き込む、潮の香りが心地よい。
リョウが運転しながら言った。
「みんな仕事はどう?」
おれは肩をすくめた。
「まあ、ボチボチってトコだな。リョウは? ダイビングショップはともかく、レンタルスタジオは儲かってんのかよ」
ミラーの中のリョウが微笑む。
「まあ、どっちも始めたばかりでカツカツだけど、楽しいよ。今は潜れるだけで満足だ。ほんとに海に行かないの? この島来てダイビングに興味示さないの、あんたらくらいだぜ」
マサがフンと息を吐いて言った。
「残念ながら、船に弱い奴がいるもんでね」
リョウがミラー越しにマサを見て笑った。
「そうだろうな。顔色見れば分かるよ、マサ」
車内にみんなの笑い声が響く。
海沿いの大きなログハウスの前で、リョウが車を止めた。店舗兼住居。木の看板に、『Diving Shop & Rental Studio - Garage House -』と書いてある。
マサがリョウを見た。
「ガレージハウス?」
リョウが照れくさそうに鼻の下をこする。
「パキさんに、この看板の前で撮った写真を送った。ここが繁盛し始めたら名称使用料を請求するって言ってたよ」
ログハウスの裏には小さな森が広がっている。ジェイディーが住んでいたあの小屋の周りに、どこか似た雰囲気だった。
ジェイディーは、今はタムと一緒に首都に移り、ジェイディーの実家で家族一緒に暮らしているようだ。フジの家に、今もクリスマスカードが届く。ずぼらなフジが珍しく、ジェイディーとは連絡を取り合っているようだ。
おれたちは車を降りる。リョウがポーチの階段を上り、ドアを開けた。
「ただいま、トモ。みんなが来たよ」
リョウが中に声をかけると、トモちゃんが奥から現れた。
色白なのはあまり変わっていない。昔は縦巻きにカールしていた栗色の髪は、今は黒に近いストレートで、首の後ろで一つに束ねていた。水色のゆったりしたワンピースの上に、シンプルなエプロンをかけている。
フジが眩しそうにトモちゃんを見上げ、言った。
「おう、トモ……久し振りだな」
トモちゃんはゆっくりとポーチの階段を下り、フジの近くに来た。目に涙をいっぱいためて、フジを見つめている。
「フジくん……ごめんなさい……ごめんね……」
トモちゃんはそれだけ言うと、両手で顔を押さえて泣き出した。カナがそっと近付き、トモちゃんの背中に優しく腕を回す。
フジが困ったような顔で応えた。
「もういいよ……トモ。幸せそうで安心した」
「フジくん……」
「リョウを、大事にしてやれよ……で、リョウに大事にしてもらえ」
「フジくん……ありがとう……ありがとう……」
泣きじゃくるトモちゃんを前に、フジはどうしたらいいか分からずに頭をかいている。トモちゃんを抱きしめるカナの頬にも、涙が光っていた。
フジはこちらを振り返り、ふとおれを見て、軽く微笑みながら言った。
「タカ。あの島で、ナシゴレンを食いながらおまえに独り言を言ったの、憶えてるか?」
おれは頷く。
「もちろん、憶えてる」
フジは微笑を浮かべて、軽いため息と共に言った。
「おれの長い四ヶ月が、やっと終わったよ」
リョウとトモちゃんのログハウスの前で、おれたちは四年間の空白を、一瞬で取り戻した。
そして、フジが将来と引き換えにしてまでも取り戻したいと願った、フジとトモちゃんが過ごしたあの四ヶ月が、フジの中で今、静かに終わったのだ。
四年にしてはあっという間で、四ヶ月にしては長い時間を過ごしたフジは背を伸ばし、はればれとした笑顔で、澄んだ青空を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます