大人への猶予
三月。
春休みに入り、おれはカナと二人で河口湖を再訪した。
およそ半年ぶりに訪れた湖畔には、冬場の雪がところどころに溶け残っていた。
夏に来た時にカナが言っていたように、やはり冬季はかなり寒いのだろう。もう春だというのに、空気は頬を刺すようにひんやりと冷え込んでいた。
夏に来た時のように車で行こうと考え、フジから車を借りようとしたら、カナは電車で行きたいという。
「なんでだよ。おれの運転、信用できないか?」
「違うよ。タカが運転してたら、手つなげないじゃん」
カナはケロリとした顔で、愛おしくてたまらなくなるような事を言ってくれる。
カナの言葉のままに、おれたちは電車で行く事にした。中央本線を大月で乗り換え、富士急行線で河口湖に向かう。
まだ電車が区内を走っているうちから、カナはおれの手を握りっぱなしだった。
湖に程近い小さなホテルにチェックインし、二人で湖畔を散歩する。散歩の間も、カナはおれの手をしっかりとつかんでいる。
アームウォーマーの先からちょっぴりのぞいたカナの左手は、小さく、柔らかく、暖かかった。
しかし指先は、踵の皮膚のように、厚く、固い。ギター弾きの指先だ。
カナが言った。
「リョウたちは、いつ発つの?」
おれは記憶の糸を手繰りながら答える。
「たしか来週の……水曜だったな」
冬休みが終わってしばらくすると、リョウとトモちゃんは大学を辞めた。二人で南の方の離島に家を借り、働きながらダイビングのライセンスを取るらしい。
いつかは自分たちのダイビング・ショップを持つんだと、リョウは言っていた。
そして、
あの時。
おれたちは元日の朝日を浴びながら、歩いてジェイディーの家に帰り着いた。寝ずに待っていたジェイディーに事の顛末を話すと、彼はおおいに憤慨した。
「あんたたち、いいひとすぎる。ぼく、きがおさまらないよ」
その時は、ジェイディーがおれたちの気持ちを
ジェイディーとの別れを惜しみ、いつの日にか再会を約束しながら、おれたちは元日のうちに日本行きの飛行機に乗った。
日本に帰ってきて数日後に、あの四人がニュースに出た。日本の大学生グループが、違法薬物所持で現地の警察に逮捕されたと。大学名までが報道されて、学校側としても処分せずには済まなくなったようだ。
病室のテレビでニュースを見ながら、フジが言った。
「あれ、ジェイディーが仕組んだんじゃないか? 自分でクスリを売りつけておいて、警察に差す。警官は点数を稼いで、差した本人は警官から小遣いをもらう。よくある手だよ」
フジは帰国してすぐに再入院していた。やはり無茶をしすぎたようだ。医者にひどく叱られたらしいが、フジは平気な顔をしていた。
おれはといえば、到着した空港からすぐに、カナに電話した。
カナは実家にいた。今日本に着いた、心配いらないから実家でゆっくりして来いと言って電話を切った。
自分のアパートまで帰ると、アパートの門の前に、コートを着たカナがしゃがみ込んでいた。おれに気付かずに、近所の猫をじゃらして遊んでいる。
おれは後ろからそっと近付いて声をかけた。
「その猫、友達なら、紹介してくれないか?」
カナは驚いて顔を上げる。すぐに立ち上がっておれを見上げると、言った。
「おかえり」
軽くジャンプするくらいの勢いで飛びついてきた。
「ただいま」
抱きしめたカナの爪先は、地面からほんの少し浮いていた。
おれはカナの耳元で言う。
「でかいニンジンをぶら下げられたから、早く帰ってきた」
「ニンジン? 何のこと?」
「忘れたのか?」
「全然憶えてない」
そう言ってカナはクスクスと笑っていた。
二人の足元で、猫が不思議そうにおれたちを見上げていた。
帰国した日の夜、おれはカナと河口湖に行く約束をした。春休みに、もう一度二人で行こう、と。
その約束を果たしに、こうして二人でやって来たというわけだ。
おれたちは手をつないで、湖のほとりの道をぶらぶらと歩いていた。
途中、道路から湖畔に降りてみる。雪の上を吹き抜けてきた冷たい風が、湖の上を通り過ぎていく。
おれは言った。
「何か心配事でもあるのか?」
顔を仰向かせ、上目遣いでおれを見上げるカナ。
「なんで?」
「出てからずっと手をつなぎっぱなし。フジたちが襲われてからしばらく、おまえは寝る時ずっとおれの手を握ってた。おまえがおれの手を握って離さないのは、おまえが持ってる不安の表れのような気がする」
カナが困ったような顔をして笑う。
「どうしたの? にぶちんのタカの言葉と思えないよ」
おれは探りを入れてみる。
「……進路のことか?」
カナは少し前から、今後の身の振り方を決めかねていた。
内定した職場に就職するべきか。
それとも、自分のやりたい事をするべきなのか。
カナは意を決したように、力強く言った。
「うん、そう。決めた」
「どうするんだ?」
「大学は、ちゃんと卒業する。卒業して、もう一度学校行く。二年間」
「なんの学校?」
「イラストとか、デザインの専門学校」
おれはカナが描いた、新入生勧誘のイラストを思い出した。
「そうか……おまえ、絵描いたりするの得意だもんな」
桜の木の下での、新入生勧誘。あれから、もう一年が経とうとしている。
勧誘する気のないおれたち三人を、仁王立ちで睨みつけるカナの姿。まるで昨日の事のように、はっきりと思い浮かべる事ができた。
「やりたい事があるのなら、やっといたほうがいいと、おれは思う」
「タカは? やりたい事ないの?」
「あるよ。でも、とりあえず就職する。やりたい事は、その後だ。自分で食べていけるようになってから」
「モラトリアムだよね、あたしのしようとしてる事って……」
カナはため息混じりに言った。決めた、と言っておきながら、本当はまだ迷っているような口ぶりだ。
おれは正直に言った。
「相手がおまえ以外なら、おれもそう言うよ。『自分には大きな目標がある』って言うのは、同時に逃げ道にもなり得るからな。普通の生活を、普通に送っていく事が一番難しいんだ」
おれの言葉に、カナは大きく頷いた。
「あたしもそう思う。だからまだ、自問自答してる。ほんとにこれでいいの? って……」
おれは力を込めて、カナの手を握り直した。
「おまえは大丈夫だ」
カナは不思議そうな目でおれを見る。
「なぜあたしは大丈夫なの?」
「おまえはいつも一生懸命で、生真面目で、真剣だからだ。おまえは絶対逃げない。目標を諦めないって意味じゃない。夢を追う時も、それを諦める時も、しっかりと自分と向き合えるって事だ」
カナは苦笑する。
「こういう時は普通、『夢を諦めるな』って言うんじゃないの? 諦めなければ夢は叶う、って」
おれは首を振った。
「それは嘘だ。それを言うなら、諦めなければ、夢は叶う『事もある』だ。叶わない奴だっている。なかなか思うようにいかなくて、嫌になったら諦めていい。辛くなったら逃げればいい。自分の気持ちと向き合う事から逃げなければ、それでいいんだ。どんな道を選ぼうと、おまえが考えて、自分で選んだ道なら、おれは全面的に肯定するよ」
カナはおれの手を離し、おれの右腕に左腕をからませてきた。しっかりと体を寄せて、おれの腕にしがみつくように寄り添い、静かに口を開く。
「こういう時、『頑張れば絶対できるよ』なんて言うのは簡単なんだよね……でも、そんな言葉は無責任だよ。タカは甘い言葉は言わない。けど、本当の優しさが伝わってくる」
おれは空いたほうの手で、カナの左腕をポンポンと叩いた。
「おれの辛辣な言葉を、おまえはちゃんと優しさと受け取ってくれる。おれが優しい男でいられるのは、おまえのおかげだ」
カナの腕に力がこもる。おれはボブ・ディランのアルバム・ジャケットを思い出した。
フリーホイーリン。あのジャケットのディランのように、おれもカナの隣で、いつも穏やかに、はにかんだような優しい微笑を浮かべて、日々を暮らしたい。
そんなおれの思いをかき消すように、カナは意外な言葉を口にした。
「あたし……実家に戻るつもりなの」
おれは思わず立ち止まった。煙のように頭から消えていくディランの面影。
「じゃあ、大学には実家から通うのか?」
カナは頷いた。
「今のアパートの家賃は、親から出してもらってる。これ以上、親に甘えられないよ。実家から通って、バイトのお給料も、できるだけ家に入れようと思ってる」
おれは言った。
「おれの所から通えばいい」
カナは恥ずかしそうに微笑む。
「たまにはそれもいいかも、ね。でも、少しずつ慣れないと。あんたと会わない生活に」
「実家、横浜だろ? 会いに行くよ。おれんちから一時間かそこらだ」
カナは笑いながら首を振った。
「あんたの思ってる横浜は、港が見える横浜でしょ。横浜市って広いんだよ。あんたの家からあたしの実家だったら、一時間じゃ来られないよ」
「会いに行くよ。何時間かかっても」
食い下がるおれを見つめながら、カナはもう一度首を振った。大きな目に、うっすらと涙が滲んでいる。
「なんで泣くんだよ」
カナは握りしめた右手で、ぐしぐしと目を拭う。
「……卒業まで、まだたくさん顔合わせるのにね。でも、来年の今頃の事考えたら、切なくてたまらなくなる……」
「会いに行ったらだめなのか?」
我ながら女々しい言葉に、カナはきっぱりと言った。
「だめ。大学卒業してしばらくは、タカの事忘れて頑張るの。そばにいたらあたし、タカの優しさで溺れちゃうよ……」
おれは黙って、カナを抱きしめた。カナはおれの背中に腕を回し、おれの胸に頬を押し付けてくる。
「二年か……おまえがいない二年は、長すぎるよ」
「ごめんね……」
「待ってるからな。ちゃんと戻って来い」
おれの胸に頬をあてたまま、カナは力強く頷いた。
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