ナシゴレンに導かれ

 荷物を置いてすぐ、マサの「メシにしよう」のひと言で外に出た。

 外に出た途端、西の空一面の夕焼けに思わず足が止まる。

「マサ、見ろよ……部屋に入る時は気付かなかった。見事だな」

「ああ、きれいだ。カナと見たかったな」

「何でおまえがカナと見たがるんだよ」

「おまえの心を読んだんだ。当たったろ」

「なるほど。次は何だ? スプーンでも曲げて見せてくれるのか?」

 軽口を叩きながら少し歩き、おそらく観光客向けであろう食堂に入る。

 歩み寄って来たウエイターに、マサがメニューも見ずに伝える。

「ツー・ナシゴレン」

 ウエイターが頷き、店の奥に消えた。おれは小さな声でマサに質問する。

「ナシゴレンてなんだ?」

 マサがのんびりと頬杖をつきながら言った。

「チャーハンみたいなもんさ。悪くないよ。ただし、注文をおれ任せにしてると三食ナシゴレンになる」

「うんざりするな。ちゃっちゃとリョウを見つけて、日本に帰りたい」

「おれもさ」

 テーブルの上に、皿が二つ置かれた。なるほど、一見チャーハンのように見える。脇に、半月に切ったトマトと、片面だけを焼いた目玉焼きが添えられている。ひと口食べてみる。少し香草の匂いが気になるが、とても美味しい。

「マサ」

「何だ」

「二、三日いてもいいな」

「そうだな、こいつはいける」

 二人で黙々と食べる。

 スプーンを動かす手を少し休め、おれは店の中を見回した。八割ほどの混み具合といった所だろうか。大して広くない店内は、何語なのかよくわからない会話で満ちている。

 英語は思ったほど聞こえなかった。観光客向けの店なのかと思ったが、半分ほどは現地の人々のようだ。アジア系も目につけば、金髪碧眼の女性たちの集団もいたりする。ビーチリゾートとして有名らしいので、世界中からの観光客が押し寄せているのかもしれない。

 おれはスプーンを口に運びながら、マサに訊いた。

「なあマサ、はあるのか?」

?」

「だいたいどこらへんを探すのか決まってるのか?」

「ああ。日本で見せた旅行パンフあるだろ。あれはリョウが見てたのと同じだ。あれに出てたホテルに、端から電話する。そんなに数はない。すぐ見つかるよ」

 それだけなのか。おれは呆れて首を振った。

「おまえの前向きさには感動するよ。ノーベルポジティブ賞をやってもいい」

「飯を食い終わったら電話しよう。ポジティブ賞を戴くのはその後でも遅くない」

 夕食を食べ終わり、バンガローに戻った。マサが日本から持ってきた旅行パンフとトラベルガイドを使って、おれが部屋に備え付けの電話でホテルに電話する。

「なあタカ」

 マサがいつになく不安げな声を出した。

「なんだ」

「おまえの英語、通じる自信はあるのか?」

「大丈夫。電話が終わる頃には、おまえはおれの語学力に舌を巻くことになる」

 どうやらゼロをプッシュすれば、直接外線電話を使えるタイプの電話らしい。ゼロを押し、番号をプッシュする。

 数回のコールの後、回線が繋がった。用件を伝える。少し待て。たぶん相手はそう言った。オーケー、待つ。保留音。

 おれは受話器を耳から離してマサに言った。

「どうだ、通じたぜ?」

「舌を巻くというより、ケツをまくりたくなるよ」

 マサの声に、不安の色が濃くなった。

 最初のホテルは空振りだった。続けて四軒かける。当たりはない。

 マサは心配そうな顔でおれを見た。

「トークの雰囲気だけは海外ドラマか海外の通販番組みたいだけど……本当に通じてるのか?」

「それじゃ日本語吹き替えじゃねえかよ。おれちゃんと英語喋ってんだろ? 大丈夫だよ。今……五軒かけたか?」

「ああ」

「三軒で日本語が通じた。日本語で『お待ちください』って言われたぞ」

「日本人だってばれてるんだな。わかるよ。おまえの英語を聞いてると、頭ん中にカタカナが浮かぶんだ」

「とにかく、こちらの意志は通じてるよ」

 マサにはいたって不評なおれの英語を駆使し、番号のわかるホテル全てに電話した。リョウは泊まっていなかった。手持ちのホテルリストに出ていない場所に泊まっているのかも知れない。対策は明日講じる事にして、今日の所は休む事にした。



 翌朝、日本の旅行会社の現地代理店に出向くため、市街を歩いた。

 高級そうなホテルが並ぶ大通りから一本入ると、朝市で活気付いている猥雑な通りに出る。対極の風景が、ほとんど隣り合って存在しているのが面白い。通りごとに、違うテーマパークを散策するような、そんな不思議な感覚だ。

 おれたちはどちらかと言えば庶民的景観のストリートに溶け込むようだ。マサはTシャツに七部丈のカーゴパンツ、おれはタンクトップの上に安物のアロハシャツを羽織り、膝のあたりで切ったジーンズといういで立ちだ。二人ともサングラスをかけ、足元は現地調達のビーチサンダル。どこから見てもリゾート客だ。

 魚や野菜、フルーツの匂いでむせかえるような朝市の中を縫うように歩いて、市場の活気を肌で感じる。太陽のような大きな笑顔で呼び込みをしている、マーケットの主のようなおばちゃん達。

 旅行代理店に辿り着き、日本語が通じるスタッフから現地ホテルの住所と電話番号のリストをもらった。礼を言いながら代理店を後にし、公衆電話を見つけて、端から電話する。近くのストアで、マサが缶コーヒーを買ってきた。日本のブランドだ。

「サンキュー」

 缶を開け、ダイヤルしながらひと口飲む。

 顔を見合わせて、二人同時に口を開いた。

「甘いな」

 マサが目を丸くして、読めるはずもない缶の成分表示を見ている。

「甘いだけじゃない。たぶん日本のよりもミルクが多いし、コーヒーも濃い」

 マサが缶をしげしげと眺めながらコーヒーを飲む横で、おれはもう何度言ったか分からない『ニシイズミ・リョウという男性が宿泊していますか?』という英語を受話器に向かって繰り返している。

 四軒かけた所で「泊まっている、少し待て」という返事がきた。

 おれはマサを見る。

「いたぜ」

「ん? え、マジかよ」

 マサは心底驚いた顔をした。

「電話しようって言ったのはおまえの発案だぜ。どうしてそんなに驚くんだ?」

「こんなに早く見つかるとは思わなかった。ノーベルラッキー賞だ」

「ポジティブ賞とのダブル受賞だ」

 リョウは外出中だった。礼を言って電話を切り、ホテルへ直接向かう事にした。代理店でもらってきた地図で、住所をチェックしてみる。海岸にほど近いホテルだ。おれたちが今いる場所から海岸までは歩いても三十分はかからない。缶コーヒーを飲みながら歩いて行く事にした。

 海岸に近付くにしたがって、土産物屋や露店が増えてくる。マサは露店のひとつでキャップを買った。

「割とよく似合う」

 おれは言った。マサはまんざらでもない表情だ。

「そうか?」

「ロケハンに来た若手映画監督みたいだ」

 マサをからかいながら、おれは腕時計を見た。もう昼だ。海岸の近くの小洒落たレストランで昼食を食べる事にした。

 今日の店は、完全に観光客向けだ。店内の装飾は東南アジアというより、どこかカリブのイメージがある。客席はバルコニーの様に砂浜に張り出し、屋根は付いているが壁はない。穏やかな海風が店の中にまで吹き渡り、いかにもリゾート然としている。日本人の姿もかなり見る事ができた。耳に流れ込む異国の言葉の奔流の中、日本語だけが唯一、こちらの思考回路に言語として到達する。

「ツー・ナシゴレン」

 おれは近付いて来たウエイトレスに言った。

「アンド、ツー・ビア」

 マサが付け加える。ウエイトレスが笑顔で立ち去る。

 おれはマサの顔をまじまじと見た。

「ビア?」

 マサが両手を広げて言った。

「後はリョウに会って、一緒に帰るだけだ。いいだろ、ビールくらいは」

「会ってからが本番だと思うがな」

 まずはビールが来た。グラスは付かない。瓶から直接飲むものらしい。マサと二人、瓶を静かに打ち合わせ、一気に半分ほど飲む。日本のビールよりも苦味が強い。だか飲み口が軽く、後味も悪くない。

 おれは瓶を持ち上げて外の光にかざした。

「この瓶の色が、海外って気がするね。実験室の薬瓶みたいだ」

 陽射しに透かせて軽く揺らすと、薄緑色のガラスが南国の空気に淡く輝く。

「ビールの注文に苦言を呈した割には、随分気持ちよさそうだな」

 そう言うマサの瓶に、もう一度おれの瓶を軽く打ちつけた。

 ナシゴレンが来た。ひと口食べてみる。ここのもうまい。ビールを飲みながら、二人でものも言わずに食べ続ける。会話を付け合せにして飯を食う女の子たちとは違い、男は無言でも食が進む。おれとマサは、ただ黙々と料理を片付けた。

 食事の手を止め、ビールを飲みながら辺りを見回す。

 ある人物を見つけ、おれは思わずビールを噴き出すところだった。

「どうした? タカ」

 ナシゴレンを食べながら尋ねるマサに、おれは黙って店の奥を指差した。

 奥の席に一人で座って、おれたちと同じようにナシゴレンを食べる、色白で長身の男。

 リョウだった。

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