ライブスタート
思ったとおり、パスポートをどこに置いたか分からなくなって、朝から大慌てだった。
途中の駅までカナが見送ってくれた。空港でマサとおちあい、時計を忘れた事に気がついた。空港内のスーベニアショップで安物の腕時計を買ってから、何とか搭乗手続きを済ませる。落ち着く暇もなく搭乗時間だ。座席に座ってしばらくすると、ゆっくりとタキシングが始まった。
「わりと時間かかるんだよな。まあ、のんびり行こうぜ」
マサは早くもリラックスムードだ。
おれは窓の外を見た。旅立つ前からホームシックだ。
駅で別れる時の、カナの無理矢理搾り出したような、ぎこちない笑顔に胸が締め付けられた。カナにあんな顔をさせた罪悪感が、おれの心を重く包んでいく。
早く戻りたい。戻って、いつものカナのとびきりの笑顔が見たい。
ゆうべ、鼻先に大きな甘いニンジンをぶら下げられた。早く帰らずにいられるわけがない。
「窓の外に、変わったもんでも見えたか?」
気が付くと、マサがおれの顔を横目で見ながらニヤニヤと笑っている。
「ああ、エルヴィスが滑走路の端で監獄ロック歌ってた」
「何考えてたか当ててやろうか」
「やめろよ」
マサは肩を揺らし、声も出さずに笑っている。
「マサは楽観的だな」
おれは言った。思わずため息が出る。
「そうかい? 実はな、リョウが意趣返しをするつもりらしいってのを、おまえに話そうかどうか迷ったんだ」
飛行機が滑走路に出て、スピードを速めていく。
「……でもなタカ、おれがこの飛行機に一人で乗って、向こうでリョウを探して帰って来たら、おまえ何て言う?」
「どうしておれに何も言わなかった、って」
「だろ? ならおれは、おまえに言って正解だったよ」
マサは両手を広げながら肩をすくめる。苦笑を返すおれに、マサは言った。
「行って、リョウを見つけて、一緒に帰ってくる。これだけだ。楽なものだよ」
おれの膝をポンポンと叩いた。
いつの間にか、飛行機は空港を飛び立っていた。もう戻れない。ライブが始まるのだ。
おれはもう一度息をついた。あきらめと、覚悟のため息だ。
「おまえに任せるよ、マサ。リズムをキープするのはおまえの仕事だろ」
「得意分野だ。まず、シートベルトのサインが消えたらビールをもらおう。機内で忘年会を済ませようぜ」
ビールで互いに今年の労をねぎらい、機内食を食べてひと眠りすると、飛行機は空港に着陸した。おれはさっき買ったばかりの腕時計を見る。予定時間より少し早かった。
必要な手続きを済ませて空港の外に出ると、まとわり付くような暑さが襲ってきた。たまらず上着を脱ぐ。早速タクシーが近付いてきて、運転手が手招きをした。マサはおれを見て頷くと、先に乗り込む。二人とも荷物はバックパック一つだ。車のトランクを開けて……などという煩わしさが無いのがいい。
「メーター! メーター倒せよ!」
メーターをそのままに走り出す運転手を相手に、マサが早速怒鳴りつけた。運転手は現地語混じりの英語で応酬する。
「なあマサ、安くするっていってんじゃねえか?」
「ああ? おまえわかんのか?」
「ヘイ、ドライバー! ディスカウント? リアリー?」
「イエス!」
運転手が笑顔で答える。メーターを倒さずに走って、普通より安めの料金を請求し、全額自分の懐に入れるつもりのようだ。おれは運転手と交渉した。
「安くしてくれるんだってよ」
おれはマサに説明した。
「なるほどね。しかし、ひどい英語だ。運転手も、おまえも」
宿泊予定のバンガローに着いた。相場より、だいたい一割から二割引きくらいの料金を請求され、思ったより安くないとブツクサ文句を言いながら金を払い、タクシーを降りる。
建物を見るなり、走り去ろうとするタクシーを呼び止めて、空港に引き返してもらいたくなった。
ほぼバラックだ。四つ星、五つ星を期待していたわけではないが、これはあまりにひど過ぎる。昔、通っていた小学校にあったニワトリ小屋を思い出した。
「ひどいな……」
「ああ、ひどい。多分『キ』がいるな」
マサがそう言いながら歩き出す。
「キ? キってなんだ?」
「イモリ……いや待った、両生類はどっちだ」
「イモリ。井戸を守るからイモリだ」
「じゃあ逆だ。ヤモリ。チェックインしたら天井を見てみな。こういう所には、たぶんヤモリが貼り付いてる。カタカナの『キ』に見える」
「マジかよ」
チェックインしてキーを受け取り、マサを先頭に部屋に入る。二人同時に天井を見上げた。
「ふむ」
マサが指を折りながら、言った。
「ざっと、キ・キ・キ、ってトコだな」
「気が重いな」
「キ、だけに、か」
「うるさいよ」
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