約束
年末もいよいよ押し迫り、マサとの旅行の出発を明日に控えた夜。
カナはおれの部屋に来ていた。おれが浴室から出ると、先にシャワーを浴び終えたカナがテレビも見ずに、静かな部屋でおれのパスポートを開いて見入っていた。
「あっ、バッグに入れといたのに、忘れたらどうするんだよ……」
おれは濡れた髪をタオルで拭きながら言った。
「うん。ちょっとね、暇つぶし」
「写真に見とれるより、こっちの実物見たほうがいいだろ……」
「バッカじゃないの」
カナは笑っていた。
「髪がまだ濡れてるな、冷えるぞ?」
「エアコン効いてるから平気」
「風邪ひいても知らねえからな」
「じゃあ拭いて」
「まったく……こっち来い」
おれが自分の髪を拭きながら手招きすると、カナは笑顔で立ち上がって素直におれの前に来た。額をおれの胸に軽く付け、両手でおれの腰の辺りをしっかりとつかむ。おれは自分の頭を拭いていたタオルで、カナの髪を拭いた。以前に一度、髪が濡れたままテレビを見ていたカナを捕まえて拭いてやったら、味をしめたらしい。小さく鼻歌を歌いながら、おれに体を預けている。
おれはカナの濡れた髪をわしわし拭きながら言った。
「ネコを風呂に入れたあとみたいだな」
「にゃ」
ひと声鳴き声をたてながら、カナはおれの腰に爪を立てた。
「いててて……」
おれが大袈裟に痛がると、カナは楽しそうに笑っていた。笑いながら、額でおれの胸を軽く押す。押されるがままに後ずさると、カナは押しながら部屋の電気を消し、おれをベッドの上に座らせた。
「なんだ、もう寝るのか?」
カナは答えずに、頭をおれの胸に預けたまま、おれをベッドに寝かせようとする。
「カナ……どうした、眠くなったか?」
「にゃ」
カナは首を振り、おれを押し倒しながらおれの口に唇を押し付けてくる。おれの唇を軽く咬み、小さくて滑らかな舌が遠慮がちに割り入ってくる。
「……っ……カナ……どうしたんだよ……」
カナの唇が少しだけ離れた隙に、おれは言った。声が擦れていた。自分の鼓動が早くなっていくのを意識する。お互いの唇が、まだ少し触れ合ったままだ。部屋が暗くてはっきりとは見えないが、カナが大きな目でおれを見つめているのが分かる。おれの愛する、10時10分のアーモンド。
カナは小さな声で言った。
「男の人って、今もまだよくわかんない……」
暗闇の中、おれの唇に軽く触れたカナの唇が、わずかに動いている。
「でも、タカは信頼できる。何も言わずに、あたしを待っててくれた。毎晩手をつないで寝るだけなのに、あたしを信じて待っててくれた」
もう一度、おれに深くキスをして離れると、おれの唇をぺろっと舐めた。
「だから、あたしも、あんたを信じる」
おれは言った。
「そうだ。これからも、おれを信じてくれ。おれも、おまえを信じるからな」
「にゃ」
カナはおれにしがみついてきた。カナの温もり。心地よい暖かさと、カナの信頼に包まれて、おれは幸せだった。おれはカナを抱きしめる。カナにのしかかられたまま。
「タカ?」
カナがおれの耳元で囁く。
「ん?」
「このままトークして寝るつもりなの?」
おれは返事の代わりに、行動で示すことにした。
しばらく後、荒い息を整えながら、おれはカナの顔を見た。
「タカ、まだ離れないで。もう少し、このままでいて……」
カナはおれの下で、小声でそう言うと、穏やかな笑顔を浮かべながらおれの髪を指でゆっくりと梳いている。カナの呼吸も、まだ少し乱れていた。しばらくそのままで、時折キスを交わしながらお互いを見つめていた。
二人の呼吸が落ち着いた頃、カナが少し寂しそうな声で言った。
「知ってるよ、あたし……」
「何を?」
「明日、タカがあの国に何しに行くのか……」
おれは驚いて、改めてカナを見た。大きな目に、わずかに悲しみの色が浮かんでいる。
おれは観念した。
「そうか……さすがに鋭いよ、おまえは……」
おれはカナの体から離れると、ベッドに仰向けに転がりながら息を吐いた。カナはおれの腕をつかみ、自分の首の下に入れながら擦り寄ってくる。細い肩を抱き寄せてやると、カナは小さな声で言った。
「あたしがなんで、ノー・ブレーキの曲弾けるか、わかる?」
「いや……なぜだ? ずっと不思議に思ってた」
カナはニッコリと笑って、種明かしをしてくれる。
「いつか、歌うあんたの横で弾く機会があった時のために、練習してたの。もうずいぶん前から弾けるんだよ」
おれは驚き、軽くため息をついた。
「そうだったのか……」
カナの一途な思いを知って、体の中、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
カナはおれの胸に手を乗せる。
「ここに来るたび、歌うあんたの横で演奏してる。でも、やっぱり何か違うんだよね。ノー・ブレーキは、やっぱりあの四人じゃないと……」
カナはおれの頬にぴったりと顔を寄せた。耳元にカナの息がかかって、少しくすぐったい。
おれは言った。
「それは、ムスタング・ドライブがカナたちじゃないと成立しないのと同じだ」
カナがおれの耳元で頷くのが、気配でわかる。
「それはわかってる。わかってるの。でも……ほんのちょっとだけ、妬けるんだよね」
カナはそういって笑いながら、おれの耳たぶを軽く咬んだ。
「あんたたち……やっぱりずるいよ……」
「ずるい?」
「憶えてる? バーガーショップで、あたし、あんたたちのこと、ずるいって言ったの……」
「ああ、憶えてるよ」
「あんなにいい演奏するのに、あんたたちはバンドでさえないのかもしれないね……」
「バンドじゃない? おれたちが?」
「そう。バンドじゃない、バンドとは、また別な繋がり……」
そう言うとカナは、おれの上に馬乗りになりながら、額をおれの額にくっつけた。大きな目でおれを睨んでいる。
「行かせたくない……ほんとは」
「わかってる……ごめん」
「行くなって言いたいんだよ? でも、さっきも言ったように、あたしはあんたを信じてる。行くんでしょ……リョウを止めに」
「そうだ、行く前に止めて、四六時中見張る訳にもいかない……向こうで捕まえて、説得して、連れ戻す」
「連れ戻せなかったら、加勢する?」
する、かもしれない。しかし、今はなんとも言えない。
「……どっちにしろ、必ず無事に帰ってくるよ。おれたち、みんなで」
「絶対だよ?」
「おれもさっき言ったろ。信じろ、おれを」
「……あんたが約束守るように、ニンジンぶら下げとくよ」
「ニンジン?」
カナはおれの口に強く唇を押し付け、離れると、甘えるようにしがみついてきた。おれの首筋に顔を寄せ、耳元で小さく囁く。
「あたしがニンジン。無事に帰ってきたら、また抱かれてあげる……」
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