それぞれの決意
「へえ、旅行かあ……いいなあ……何日くらい?」
抽斗を探ってパスポートを探すおれに、カナがおかきをつまみながら呑気に声をかける。
煎餅やおかき、そしてチョコレートはカナの好物だ。カナと付き合うようになって、おれは家にそれらを常備するようになっていた。
「そう……五日間くらいだな。ごめんな、年末年始一緒にいられなくて……」
「あれ……一緒にいたかった? あたし実家に帰るつもりだったから」
カナがそう言って、上目づかいで意地悪そうに笑う。
「カナの実家、横浜だったな……ありあけのハーバーを買って来てくれ」
カナは脳天から響くようなソプラノでハーバーのコマーシャルソングを歌いながら、リモコンでテレビのチャンネルを変える。自分用のピンクのブランケットに首までくるまって、背中を丸めてこたつに入り、顎をこたつの上に乗せて上機嫌だ。
このところ、カナは毎日のようにおれの部屋で過ごしていた。いつものように、一番テレビが観やすい場所に陣取っている。こたつの上には、カナ用の白いマグカップ。カナのお気に入りの、黄色い小鳥のキャラクターが描かれている。その隣の、黒い猫のキャラクターが描かれているのは、おれのカップ。カナのカップとペアで、二人で選んで買ったものだ。
毎日のようにおれの部屋に来て泊まっていくカナだが、あの日以来、おれはカナを抱いていない。
ベッドに入り、カナはおれの手を握る。おれが目顔で訊ねると、カナは小さく首を振る。おれが微笑んで頷くと、カナは小さな声で「ごめんね」と謝る。
「いいよ、気にするな」
「求めてくれるの、嬉しいよ……でも……」
「いいよ……今度な」
「うん……」
こんな感じの繰り返しだ。
一度、リョウとトモちゃんの話になった時、カナは涙を浮かべて言った。
「女の子にあんなひどい事するなんて、信じられない。あたしには、男の人の心理がわかんない」
と。
今のカナにとっては、おれさえも『信じられない男の人の仲間』だった。
ただ手を握り合って眠るだけでも、カナと二人で過ごす時間は、相変わらずとろけるように甘いひと時だ。だが、またいつか、以前のようにカナと愛し合える日が来るのだろうか。
その時以来、あの日の事は互いに口にしなかった。
おれたちみんなの心に付いた、
もちろん、トモちゃん、フジやリョウに較べれば微々たるものだ。
でもあの事は、おれたちみんな、特にカナの心に、
「あった。やっと見つけた」
引き出しの奥に、ようやくパスポートを発見し、おれは思わず声を上げた。
「みして」
カナがブランケットの中から手を伸ばす。おれはカナにパスポートを渡しながらこたつに入った。
「タカ、座椅子」
「おまえの後ろにある」
「違うよ、タカ座椅子」
「ああ……はいはい……」
おれは一度立ち上がり、カナの後ろの座椅子に座った。すぐにカナがおれの胸に背中を預けてくる。
「あはははは」
身分事項のページを開き、おれの写真を見たカナが声を上げて笑う。
「何だよ、あまりにいい男でびっくりしたか?」
おれはカナの体の前で両手の指を組み合わせた。
「手配写真だね」
菓子鉢からおかきをひとつ摘み上げ、振り返りながらおれの口に入れる。
「おれの写真見て笑うってのは、自分の美的センスを否定してる事にならないか?」
おかきを噛み砕きながら軽く抗議してみた。カナはクスクスと笑って『い〜』をする。
「見た目で好きになったんじゃないもん」
カナはもう一度写真をしげしげと眺め、楽しそうに続けた。
「でも……こうしてみると、まあまあ悪くはないかもね……」
パスポートを閉じて、おれに返して寄こした。おれは受け取って有効期限を確認する。まだ随分余裕があった。
「悪くない、か。そりゃ嬉しいね」
「帰ってきたら、電話してね」
「まだ先の話だぜ?」
「あは、そうだね……」
おれの手を、カナが自分の両手で、そっと包み込む。
いつものように、おれの手よりも少し暖かい手。体と同じに、小さく、か細い。
が、ギターを弾く時は、この小さな手を裂けんばかりに拡げ、固くなった指先で、捩じ伏せるようにコードを押さえ込む。
リョウの意趣返しの話は、カナにはしていない。
嘘をついているわけではない。しかしおれは、本当の事をカナに言っていない。それをカナは察しているのだろうか。行く前から帰って来た時の話をし、おれの手を自分の柔らかな両手で包んだまま動こうとしない。
「お土産、何がいい? 現地のイカさないTシャツとかでいいか?」
おれは極力明るく振舞った。カナはおれの手を握る両手に少し力を込めて、言った。
「あたしが欲しいお土産はね……あんたが無事に帰って来てくれる事……」
音楽同好会のクリスマス・ライブは、客席から一人で観た。
マサは今頃、二人分の航空券や宿泊の手配で東奔西走している。おれはピッグエッグの客席の後ろのほうで、ムスタング・ドライブの演奏を観ていた。演奏が終わり、おれは楽屋に顔を出した。カナと少し話をして、そのまま一人で駅に向かう。
おれはフジのアパートに向かっていた。
二階建てアパートの、二階の角部屋。玄関のインターホンを押す。しばらく待つと、不機嫌そうに返事をするフジの声が聞こえてきた。
「おれだ。様子を見に来た」
「タカか。待っててくれ」
「ゆっくりでいいよ」
少し待つ。玄関の鍵を開ける気配。ドアが開く。
少しやつれた感じの、フジの顔が現れる。無精髭。髪もボサボサだ。ネイビーブルーのスウェットの上下。
「おう、今日は一人で来たのか?」
「そうだよ」
返事をしながら、おれは気がついた。ギプスをしていない。
「あれ? ギプス取れたのか?」
「ああ。少し前にな。入れよ」
フジは壁に手をついて体を支えながら、フローリングの床を歩いて行く。やはりまだ、痛みはあるようだ。
部屋の中は相変わらず散らかっていた。スタンドにはギターが立てかけられ、床にはシールドやエフェクター、楽譜が転がり、まさにロックンローラーの部屋という風情だ。
「食う物を買ってきたよ。買い物出るの億劫だろ。冷蔵庫開けるぜ」
おれは冷蔵庫の横にスーパーの袋を置いた。
「ああ、悪いな。今度、学食で何かおごるよ」
「学食かよ。外のレストランとかでもいいんだぜ?」
「そうはいかねえよ」
フジは笑った。
冷やさなければいけない物を冷蔵庫に入れ、おれは部屋に入った。フジがおれを見て、テレビを指し示す。
「あれ?」
画面には、おれたちのライブが映し出されていた。初夏のライブ。リョウが加入して、初めてのライブだ。
「いいよ。悪くない」
フジが感心したように言った。
「何だ、どうしたんだよ、この映像」
おれは転がっているエフェクターを脇に押しやり、こたつに入った。
「部長がこのDVDを持って見舞いに来てくれた。自画自賛と言われるかもしれんけどな、これは大したもんだよ」
「フジ」
「なんだ」
「自画自賛だよ」
画面の中のバンドの演奏を、しばらく二人で黙って観ていた。
このライブから、もうどのくらい経っているのだろう。
照明の眩しさ、まだ持ち慣れないベースの感触、湧き上がる歓声。全てがまざまざと、昨日の事のように思い出せる。
こうやって改めて見ると、確かに悪くないかもしれない。
そう、こいつらとなら、どこまでも行ける。そんな気分だった。
「なあ、タカ」
「ん?」
フジの呼びかけにおれは我にかえる。
「おれが練習すっぽかした次の日……おまえら、おれんトコにきたか?」
みんなで病院に駆けつけた時の事だ。
「ああ、行った。憶えてないのか?」
「おぼろげに記憶にはあるんだが……夢かと思ってた。じゃあ、おれはリョウに悪態をついたんだな?」
「麻酔のせいだって聞いた。気にするな」
フジは表情を崩さず、首を振る。
「ラリって出た言葉なら、なおさら嘘は出ない。リョウに謝らないとな」
「リョウに何を言ったか……覚えてるのか?」
おれは訊いてみた。フジは微かに頷いた。
「だいたいは」
思い出したら哀しくなるような、フジの怒り。おれは話を逸らした。
「まずは足の骨をくっつけろよ。謝るのはそれからでも遅くない」
「もうくっついたよ。ギプスもとれたし、あとは元のように動かせるようになるだけさ」
画面の中では、リョウとフジが背中合わせになりながら間奏のパートを弾いている。
「トモはどうしてる?」
フジが映像を見ながら言った。
「実家で静養してるそうだ。詳しいことは知らない」
トモちゃんは数日で退院している。リョウ以外とは誰とも、一度も会っていない。
「実家、親御さんは、何があったか知ってるのかな……」
「言ってないと思う……実家、どこなんだ」
「海沿いの、港町だって言ってたな、確か……」
フジは自分の足も二の次で、トモちゃんの事を心配している。
おれは言いたかった。
トモちゃんの事は、リョウに任せておけ。あの二人はもう放っておいて、おまえはおまえの心配をしろ、と。
しかしおれはそいつを飲み込んで、フジと話をしていた。
事実、リョウは三日とあけずにトモちゃんの様子を見に行っているようだ。
トモちゃんは今、リョウの恋人だから。
だが、フジは全て納得してトモちゃんと別れた訳ではない。
フジの気持ちは宙ぶらりんのまま、トモちゃんはリョウの所に行ってしまったのだ。
二人の顔を見ないでいられたら、まだ良かったかもしれない。
だか、気晴らしにギターを弾きにスタジオに行けば、そこにはリョウがいる。
トモちゃんの新しい恋人である、リョウが。
おれはフジを見る。ボサボサの髪に無精髭。画面の中のイカしたギタリストは、今は見る影もない。
しかし、穏やかでありながら真剣な表情でライブの映像を見るフジの目に、静かな憤りのようなものが宿っているのを感じた。
うっすらと青く光る何か――。
トモちゃんをひどい目に合わせた連中への怒り、そして、行き場を失ったトモちゃんへの思いが入り混じり、まるで鬼火のように
画面の中では、演奏が終盤に差し掛かっていた。いつもの曲を演奏する、いつもの顔ぶれ。
この時のこいつらは、もういない。
おれは思った。願わくばもう一度、おれたち四人の心に、本当に何のわだかまりも無くなった時に、また四人で集まって演奏したい、と。
おれは画面を見ながら、フジに言った。
「良くなったら……足も、何もかも、良くなったらさ、またやろうぜ」
フジはおれをチラリと見て、薄く笑う。
「もちろん」
フジは力強く言った。
「このままでは終わらせないよ」
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