第3章

残酷な世界

 東の県境に近い場所に、その病院はあった。

 誰もいない休日の待合室にはカナの泣く声だけが小さく響き、おれはただカナの肩を抱き、待合室の長椅子に座って、目の前の白い壁を見つめていた。

 少し離れた所には、しーちゃんとマキが、おれと同じように無言のまま長椅子に腰掛けている。

 誰も、何も言わず、周囲を静寂が支配していた。



 おれの携帯にマサから電話があったのは、二時間ほど前だ。

「マサか、電話なんて珍しいな。どうした?」

「タカ……来てくれないか? おまえを呼んでもどうにもならないのは分かってるんだけど……おまえもここに来てくれよ……」

 携帯から響くマサの声は不安げで、堅く、そして沈んでいた。

「どうした、マサ。どこにいる? 何があった?」

 マサの様子から、只事ではないというのはすぐ分かった。すぐに目が冴え、緊張が走る。その気配を感じたカナが、目を開けておれの顔をジッと見ていた。

 マサは病院の名を言った。

「そこにいる、三人とも……」

「三人て……」

「リョウと、フジと、トモちゃんだ……」

「おいまさか……」

 色めきたつおれに、マサが慌てて付け加えた。

「三人とも生きてる……おまえも来てくれ……頼むよ……」

「わかった、すぐ行く。待っててくれ」

 おれは電話を切り、カナに会話の内容を伝えた。カナは車を借りようとマキに電話した。マキはしーちゃんの家にいた。事情を話すと、マキが乗せて行ってくれるという。

 おれのアパートからほど近い駅のロータリーでマキと待ち合わせた。しーちゃんも一緒だった。マキは可能な限りの速度で車をとばした。

 病院に着くと、無人の待合室にマサが座り込んでいた。近づいて行くおれたちに気がつき、マサは立ち上がった。固く強ばった顔に、わずかに安堵の色が浮かぶ。マサは重い口を開いた。

「フジとトモちゃんが入院してる」

「リョウは」

「ケガはしてるが、入院はしていない。今はトモちゃんの病室だ。トモちゃんに付き添ってる」

「何があったんだ」

「なぜ三人が一緒だったのかは、よく分からない。警察の話では、誰かに襲われたらしい……四人組って言ってた。みんなケガしてる……トモちゃんは、乱暴された形跡があるって……鎮静剤うたれたり……色んな処置をされて、さっきやっと眠ったって……」

 おれの視界の隅で、カナの体が揺れているのが分かった。おれがカナを抱きとめるのとほぼ同時に、カナの膝が崩れ落ちた。近くの長椅子に、カナを座らせる。

「なんで……どうしてそんなこと……ひどい……ひどいよ……」

 カナはおれに体を預け、泣きながらうわ言のようにつぶやいている。おれは何も言えず、ただカナを抱きしめながら、背中を軽く叩いてやるだけだった。



 「みんな来てくれたのか……」

 その声で、おれは我に返った。

 リョウが廊下の向こうから、おれたちのほうに向かって歩いてくる。右腕に包帯を巻き、右足を少し引きずっていた。表情は石のように硬い。

「リョウ……大丈夫か?」

「おれは平気だよ……腕を少し縫ったのと、ちょっと足をひねったくらいだ」

 リョウはそう言いながら、カナの前にしゃがみ込んだ。

「カナ……そんなに泣かないでくれよ……」

 カナの顔を覗き込むリョウ。

「だって……」

 カナは泣きじゃくり、それ以上言葉にならない。

「ありがとう、カナ……みんなも」

 リョウは立ち上がり、全員の顔を見渡した。ほんの少しだけ、表情が和らいだように見えた。

 おれはリョウの背中を一発叩き、言った。

「そんなの、礼なんか言うな」

 その言葉を肯定するように、マサもリョウを見て頷いている。

 無人のロビーにエレベーターが到着した。降りてきた看護師が、おれたちを見つけて声をかけてくる。

「あの……藤井さんのご友人の方々ですね? 藤井さん、目を覚まされましたよ」



 フジは体中に傷を負っているらしい。中でも右足は、脛の骨がひどく折れているという事だった。

 足を手術され、麻酔で眠っていたフジが、やっと意識を回復した。おれはカナをしーちゃんとマキに託し、マサとリョウと連れ立って、フジがいる病室に向かった。

 四人部屋の一番奥、他の入院患者はなく、四人部屋にフジひとりきりだ。病室に入ると、右足の膝下をギブスで固められたフジが横たわっていた。他にも、頭、頬、腕まで、包帯や絆創膏だらけだ。看護師が二人、血圧や体温を計っている。

 フジはおれたちの気配を感じ取り、澱んだような目で、視線を宙に漂わせた。

「よお、おまえらか」

 おれたちに気付いたフジが、怪しい呂律で声をかけてくる。まだ完全に麻酔が醒めきっているというわけではないらしい。

「大丈夫か?」

 おれとマサがそっと声をかけたが、フジのおぼつかない視線は、おれたちの後ろから病室に入って来たリョウに注がれる。

「おやおや、どこからかトンビが舞い降りたぜ」

 麻酔が効いて、灯が消えたようだったフジの目に、明らかな怒気が宿る。

「トンビ?」

 マサが思わず聞き返した。

「知らねえか? トンビが油揚げかっさらう、ってな。ひとの女を横からさらいやがるのはトンビじゃなくて何なんだ?」

 息を飲むおれとマサをよそに、フジは続けた。一語ごとに声が大きくなり、伝わる怒りも増していく。

「あげくの果てにこの有様だ。横からさらった女ひとり守れねえってんだからひでえ話さ。なあリョウ。気の利いた言い訳の一つも出るなら聞いてやるよ。ええ!? どうしたおい、黙ってねえでうたってみやがれってんだよ!」

 腕に付けられた点滴のチューブを引きちぎらんばかりの勢いで暴れ出し、枕を投げつけてくる。看護師が強い口調で制止しながら、フジの体を押さえ付けた。

「すみません、一度出てください!」

 もう一人の看護師が、おれたちに退室を促しながらナースコールのボタンを押し、フジの制止に加わる。

「行こう」

 おれとマサは、呆然と立ち尽くすリョウを扉のほうに押して歩かせた。

「痛え! はなせバカ野郎! おい待て! てめえくそったれが! 何とか言え! おいリョウ、おれとトモを元通りにしろ! 元のおれたちに戻せ! 聞いてんのかこの野郎! おいリョウ! 返せよトモを! リョウ!!」

 おれはマサと一緒に、リョウを引きずり出すようにして病室を出た。フジは喚き続け、その声が廊下にまで響く。リョウじゃなくても聞いていられない罵詈雑言だ。フジの言葉に立ちすくむリョウを、おれとマサで両側から挟みこむようにして、どうにかナースステーションの前まで連れて来た。ここまで来ればフジの声も聞こえない。近くのベンチに三人並んで腰を下ろす。

 おれとマサが同時に、深いため息をついた。

 いつか、フジがトイレで吐くのを見た後で、学食で二人で話したのを思い出した。

「何とも思ってねえよ」

 フジはそう言って笑ったが、やはり本心ではなかった。何も思わないはずはない。

 フジは、何とも思っていないととしていた。そう思い込む事で、自分の気持ちに何とかして折り合いをつけようとしていた。

 さっき病室にいた看護師が、おれたちの所へ走り寄ってきた。

「麻酔から覚めたばかりで意識が多少混濁しているようです。骨折の痛みを和らげる為に少し強い麻酔を使っているので、うわ言もでます。あまり気になさらずに……」

 そう言って会釈すると、忙しげにナースステーションに入っていく。

 しかし、看護師から慰められたところで、『フジが言った』という事実は何も変わらない。たとえ、麻酔のせいで口をついて出たうわ言であろうと、思っていない事は口から出ないはずだ。

 マサがリョウの背中を何度か軽く叩く。

「リョウ、トモちゃんについててやれよ……二、三日経って、フジが落ち着いた頃にまた様子見に来るから……今、言われたように、あまり気にするな」

「うん……」

 リョウは、まだ上の空だった。

 おれは、廊下の向こうにある大きな窓の外を見た。空は青く澄み渡り、暖かそうな日差しが降り注いでいる。

 おれたちはこんなにもひどい気分なのに、この爽やかな天気はあんまりだと思った。

 地球は回っている。その上で暮らす人々の事などはお構いなしに、ただ回り続けている。

 厳然として、残酷に。



 ナースステーションの前でリョウと別れ、カナたちの所に戻る途中でマサが呟いた。

「本心だろうな、フジの……」

 おれは無言で頷き、同意する。

「うわ言とはいえ……いや、うわ言だからこそ、思ってもいない事は言わないよ」

「やりきれないな」

 ――返せよトモを。

 フジはそう叫んだ。泣きたい気分だった。

 おれたちに出来る事は、何も無い。来た時の四人にマサを加えて、五人でマキの車に乗り込んだ。トモちゃんの様子を見に、一緒に車に乗って来たカナたち三人だったが、今はそっとしておいてやってくれというリョウの言葉に、会わずに戻る事にしたようだ。

 車の中、おれたちは無言だった。マキの運転も、いつになくおとなしい。助手席のマサは、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめていた。後部座席では、カナがおれとしーちゃんの間に座り、目を伏せて俯いている。

 乗せてもらったのと同じ場所で、おれとカナは一緒に車を降りた。走り去るマキの車を二人で並んで見送る。カナはおれの手をしっかりと握ったままだ。そのままカナの手を引くように、おれたちはアパートまで戻った。

 その夜、カナはおれの手を握ったままベッドに入った。なかなか寝付けないようだったが、午前三時を回った頃、静かな寝息が聞こえてきた。

 カナの後を追うように、おれも少し眠りかけたらしい。ふと気が付くと、カナが苦しそうな声をあげてうなされている。

「カナ……」

 おれはカナの肩を軽く揺り動かしながら声をかけた。カナは目を覚まし、少し怯えたような表情でおれの顔をじっと見つめる。

「大丈夫か?」

 カナはおれの問いかけには答えず、ただニッコリと笑って、安心したように目を閉じ、おれの手を握りなおすと、また穏やかに寝息をたて始めた。

 おれはカナの寝息を聞きながら考えていた。

 どこの誰だか知らないが、やってくれたぜ。

 リョウやトモちゃん、そしてフジだけでなく、カナの心も傷付けた。いや、カナだけじゃない。おれやマサの事も、コケにしやがったんだ。

 くそ。誰だか知らねえが、許せねえ。

 おれはやり場の無い怒りを胸に抱えたまま、暗い天井を凝視していた。

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